ニ 頽《ナガ》レコムノダ
アア コノ夕暮ノケハシイ思ヒ
冷タイ明眸ニブキミナ微笑ヲタタエル君ノ
スルドク額ヲ刳ルモノ 何トイフソノ邪悪デアラウカ
椅子ノモツレタ位置カラ遠ク 鉄ノ滲ミイル屈折カラ
塩ノムゲンナ様子ガシレテ 今コソ
ベエリングハ真向カラノ封鎖ダ
霙フリヤマズ 夜トナル
ナマ
徹夜の大道はゆるやかに異様にうねり、うねるままに暗暈の、氷る伽藍のはてに沈まうとする。道は遠くこの一筋に尽きて、地と海との霾然たる、また人間の灰神楽。飛び交ひなだれ堕ちる星晨や殺気のむらむらや、それら撃発する火のやうな寂しさのなかに、己は十字火に爛れた生《な》まをつき放さうとするのだ。おお、集積《マワス》の眼! 不眠の河となつて己を奪つたすゑは、むざんに溷濁の干潟に曝し、滄々たる季節の下にいまとはなつたが、挑みかからうと己みづからが空をつく。何者へ対つてか、嗤へ、長年漂泊にあらび千切れた胸の底に捉へやうとする、生きがたい、夢の燔祭。埓もない見てくれの意匠も旧い日のことになつた。
神々といふあの手から離れてここに麻のやうな疲れが横たはる。
あたらしひ希ひを言へと、誰がみ近く呼ばふのだ。
氷霧に蝕む北方の屋根に校倉《あぜくら》風の憂愁を焚きあげて、屠られた身の影ともない安手の虚妄をみてとつたいま、なんと恐ろしいものだけだらうか。原罪の逞《ふと》い映像にうち貫かれた両の眼に、みじろぎもなく、氷雪いちめんの深い歪《ひづ》みをたたえて秘かに空しくあれば、清浄といふ、己はもうあの心にも還る事はできないのだ。沍寒の夢はつららを砥いで、風は陣々と滲みいるやうにあたりを廻りはじめてゐる。内から吹きあげる血の苦がい、灼けるやうな飛沫が叫ぶ、とうてい身はかわしきれないと。善哉《よし》!
人の闘ひはまだつづく。
牙のある肖像
※[#ローマ数字1、1−13−21]
嘗ての日、彼等こそ何事を経て来たであらうか強烈の飲料をその傷口に燃やし、行方なく逆毛《さかげ》の野牛を放つては、薪のやうに苛薄の妄想をたち割つた彼等。こころに苦《にが》い移住を告げて、内側から凍りつく鰊のたぐひを啖ひ、日毎無頼の街衢《ちまた》から出はづれては歌もなく、鉄のやうな杳かの湾流がもたらす風の、勒々とした酔ひのひと時を怖れた彼等。到るところしどろな悪草の茎を噛み、あらくれの蔦葛を満身に浴びて耕地から裡の台地へと。また深夜のど強《ぎつ》い落暉《いりひ》にうたれて、犁《すき》のたぐひを棄て去つた彼等。〈雲と羅針とを嘲りわらふ、その朦昧の顔の冷たさ。〉ひとたび扉口は手荒く閉ざされ、傾く展望はために天末線《スカイライン》を重沛のやうに沈澱したのだ。佯《いつは》りの花と糧秣はぶち撒かれ、床板に虚しく歯車の痕が錆びてゐる。いま襤褸をづらし、十指を組み、ヂザニイの干乾らびた穂束に琥珀を添へて、純潔の死と親愛とを祈る彼等だ。野生の卓に水が流れる。
水が流れる。
一途に貪婪なる収穫の果がこれであらうか。
いよいよ下降する石畳から、壊はされた黒い楔《くさび》の扉口からだ。ざんざんと頽《なだ》れこむ躁擾からそれら卑少の歴史から、虜はれの血肉をみづから引き剥して、己は三歳の嬰児だ。絶えまない不吉の稲妻と、襞もない亜麻の敷布が繋がれて、この無様《ぶざま》な揺籃の底に目覚めてゐるとは誰が知らう。
ああ、最後の人の手から手へ、斑らなる隈どりで残された記憶。あれは秋であつたらうか。〈諸々の狭隘な傲りを押し破つた水。季節を逸れた水の氾濫! それこそ兇なる星辰《ほし》の頽れだ〉四肢を張り、頑強に口を閉ぢ、むざんに釘うたれたまま、ぎるんぎるんと渦巻く気圏に反りながら、冷酷な秋の封鎖のまつただ中を抛れた、その記憶がま新《あた》らしい。己はどんなざまに声をあげたらうか。凹凸に截られた、石畳の隅で、彼等街衢から出はづれ台地を降る者の、塩を銜《ふく》んだ頤が獣のやうに緊るのを知つた時。その不可解の一瞥に、蒼ざめた北方路線がまざまざと牽かれるのを、己は視たのだ。隙もれた裏屋根の、冴えた肋《あばら》に入り交ふものは、しらじらと西風に光る利鎌、はやくも鉤なりに、彼等の額に※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、240−上−14]《まつは》る何ものの翳であらう。ひと時の寂寞。
蘆のよぶ声がする。その向ふを久しく忘られたまま、湾流に沿ふ屍の形。頸のぐるりを霙の兆《しら》せ。錘のやうに寂寞が見えてくるのだ。今こそ潤ひなき火に、密度の凄まじい地角の涯に、彼等ひとしく参加する時を待つてゐるのか。見知らぬ移住地に獣皮を焚き、轍を深める。己は餓ゑ、さらに彼等は餓えるだらう。
※[#ローマ数字2、1−13−22]
すべては荒蕪の流域につらなる裏屋根の、出窓の格子に仮泊する、夥しい鴉の群だ。海藻を絡んだ羽を搏つて、失はれた耕地の跡に、ばさばさと自らの影を追ひたてる鴉の群だ。その腥い印象から なんとも知れぬ獣血のたぐひに濺がれて、しぜんに斃れてゆくものは、展望をしだいに埋めてゆく。唯ひとり、揺籃の底に艱《なや》むでゐる己の額に、やがては稲妻も十字を投げるだらうか。いま一筋荒々しく乗りこんでくる歌声をきかう。愛憐もなく火に酔へる、三歳のつぶらな眼底に滲みては、たちまち水浸しの肺腑を侵してくるその歌声。ああ 己の身うちにがんがんする無辺から襲つてくる非情の歌声。
[#ここから2字下げ]
枝を折り
すぎゆくものは羽搏けよ
暴戻の水をかすめて羽搏けよ
石をもつて喚び醒ます
異象の秋に薄《せま》るもの
獣を屠つて
ただ一撃の非情を生きよ
……………………………
きみの掌に
すぎゆくものは
沸々たる血を※[#「車+兀」、241−上−5]きたまへ
ふりかかる兇なる光暉の羽搏きに
野生の花を飾るもの
血肉を挙げ
あくまできみの非情を燃えよ
……………………………
[#ここで字下げ終わり]
歌声は嗄れた。激しい裂目をみせてもう雲母《きらら》の冬。水退けの昏い耕地をずり落ちて天末線の風も凄く、とほく矮樹林は刺青《いれずみ》のやうに擾れてゐる。ここにあるものは己の三歳とその他。純潔の約定と飢餓とその他。ばらばらに黒い楔《くさび》の外《はづ》されたこの残留の街衢の中で、彼等の笑ふやうに、その笑ひが己の面上にあると思ふのか。強力な抵抗に撓められた鉄格子、また荒廃した扉口に吊られ、牙のある肖像こそおよそ愚劣の意匠をこらして、寒々しい光栄に曝されてゐる。これら牙のある肖像こそ彼等と己をめぐる、妄想の限りない露呈ではないのか。みよ、欣然と卓をたたいて空しい収穫のおもひに縊られるもの。丹赭を塗つた鬱屈の姦淫者。嗤ふべき取引。小学生らは石を投げて屋根の下に陥りてみ、青くざらざらした灰が四辺をたち罩める時、やうやく亜麻の敷布を拡げてゆく戦慄。
大利鎌の刃先に漂ふ薄暮の白い眼差し。蘆のよぶ声のむかふを、湾流に沿ふて屍のまつたく忘られた形。下降する石畳にサイレンが鳴らされ、断続の後それも杜絶えた彼等の苦《にが》い表情から、残忍な行為ばかりを読んだうへに、苛立つ矮樹林から、その声高な笑ひの中に、己ばかりは不逞な精神の射殺をきくのだ。誰も彼も居なくなる。やがて霙がくるだらう。この無様な揺籃の底に、天才を死に果てたとは誰が気付かう。横なぐりに出発の時が来たのか。己は再び引き剥す血肉に飢餓を鎧つて、ひとときの眠りを墜ちてゆく身だ。
途上
ひび割れの
一層むごい凌辱と貪婪の
手にとるこの世のあらひざらひだ
やくざな助材を解きはなつておもふざま
幻象に仕上げるのが日常なら
それに火をつけ
奈落を渫ひ
どのみちおほきく笑へればいいといふものさ
これをしも不誠実だと責めるまへに……
だがいまは言ふな
すべる蠅よ
のさばる光栄のしやつ面《つら》たちよ
生活だと言つたのが愚の骨頂なら
もう何ひとつ文句はつけぬ
この身は暗い百年に触火して乱雑たるあれ――なほ渡つてゆく
歩みは一片の悔いもないが
意地わるくつらく強力に泣いてゐるのだ
風ともない通り魔のしはぶきのやうなやつに折からの
風物が絞めあげられて
ながい間めいめいのおもひは錯落した
すれ違ひざまに光つてきらりと此方を見た眼
なんとあたり前のかなしげな挨拶
あるけあるけと渡つてきたのだ
行きあたるところの無い限り 愛や動乱や死の胆妄に
灼かれる業も
まして尼からのぞいた孤独といふやつ
一時が永遠に木ツ葉微塵の形なしだといふのさ
及びがたい力につらぬかれ
きらりとし錆びいろとなりふき晒されて
それこそどんな暗黒にも閉ぢることはないだらう
別々でありながら身内に燃え燃えながらも離れてゆくといふ
おかしなさういふたぐひの眼だ
せつかく此処まで来たところがこれでは説明がつきかねる
これをしも不誠実だと責めるまへに
だがいまは言ふな
おまへが何を共力しようとするのかそれも知らぬ
おれは世界が何故このやうにおれを報いたかを考へてみるのだ
宇宙犬の夢をもつためには
しばしばその夢からさへ脱がれようとする
だがいぶかしげにおれをうながす
憫みともつかぬだんまりが反つておまへの常套なのか
どうやらそれも怖ろしい眼の裏側を糾問するためのことらしい
がたんと重いぶれーきで停り
わづかな喧騒の後はまたもとの静けさに帰つた
いやおれはこのまゝでいいのだ
辛いやつを口になめては
歌をやるすべもない
左様なら
いちめんの斑雪《はだれ》に煤がながれこんで
黒い車輛の列からはみだしてる
途方もない
陸のつゞきさ
煉瓦台にて
水沫《しぶき》を擾して抛物線の、刻薄を伝つて。
空に痙攣れて 船体《ハル》の悲しみが沈むでゆく。
燃え尽きた煉瓦台に身を打ちなげて己は、薊の花と落日と、荒々しい時の転移を聴いてゐる。地に墜ちる気流の行方にもがいては、刹那刹那の断面を過ぎる候鳥の黒く。己はその憎々しい掌に、自らの頽唐を深めて、雲を自在に馳つてゐるのだ。死はやがて己を、天上の水沫に捲き込むであらうか。とまれ無限への不逞な身構へであらうとも、彼の煉瓦台に、一沫の血漿を残すであらう。
ああ今は盛り反へる船体《ハル》の悲しみ、その滲み透る深度にこそ、最も惨忍な意志との婚姻を誓ふのだ。
拒絶されたこの双手を投げるのだ。水沫を擾して、その刻薄をはるかに伝へよう。
友よ。己は君に一撃をくれて此処を発つ。
大外套
足もとの草々は冷たく。泥濘の中を、アカシヤに凭れて水を飲んだ。口に苛立たしい音階を繰り返し、遠く暗欝な入江をかき毟る風に、己は愴然と眼をなげてゐた。なんの当があつて。この丘陵地方の荒頽の中に迷ひこんだのか知らぬ。〈彼の灰色のバルドヰン。怖ろしい大外套の襟をたてて、北方ハンガリヤの暴々たる野末だ。胸の傷痍をまざまざと見せつけて、彼が此方へ顔を向ける。河沿ひの人気ない酒肆の一隅で、己は久しく待つてゐるのだ。※[#「木+解」、第3水準1−86−22]の梢がざわめいて、限りない憂愁の歪みがあたりに拡がる。頂垂れて、しかも力をこめて彼は近づく。硝子戸に黒い紋章。一匹の蠅と砂と。過ぎゆく時が己の肩に羽搏たいてゐる。喉が渇いて、舌が痙れて……〉さうだ、嗤ふべき彼の生涯が、己の肉体にくまなくその破片を留めてゐる。だが敵意と冷笑とで己に挑みかかる彼の辛辣を思へば、寧ろ平静に酒杯をあげる己ではなかつたか、卑屈な闘ひを見棄てて、いまは己は目覚める。そしてまた歩きだす。泥濘の凹地を。アカシヤの伐られた涯を。不器用な音階を繰り返し繰り返し、入江に向つて降りてゆく。歯と歯のあひだの寒烈。裏がへしの低い太陽。太陽こそ恒に陽気でありたい。孤独に価しないものを孤独として、なんと世界は諧謔のない笑ひばかりだ。狂つた頭脳の短い顛末に就て、己は最早考へるどころではないのだ。自分こそ最も奇怪ではないか。冬の襲ふ前に、秋の去らぬ内に、彼の擾然たる街に還らう。
其処には投げだされた鉄器等、毀れた肢体、錯落する事件等。空気にはイペリットが薄く滲みて、軍鶏の肋骨がごつごつ曝らされてゐるのだ。バネの錆びた秘密や喚いてゐる塗料。誰かがきまつて言ふに違ひない。〈ありふれた眠りであつたか。夙く寝台を離れ
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