稀薄である
錨はすでに溶解され 百万の時計は瀝青に狂つた
 〈なんにも言ふことなんぞあるもんか〉
俺は手をあげてゐる 彼奴は用意する


  眼鏡

どすぐろい男らがいつさんに馳けてゆき
どすぐろい女らがいつさんに馳けてゆき
自然はいちどに憔悴する
工場は一度に燃えあがる
これはなんといふ兇悪な眼鏡の仕掛けであらう
どすぐろい男らがいつさんに倒れ
どすぐろい女らがいつさんに倒れてゆき
あらゆる眼鏡は屠られてしまつた
あ この悲しめる世界の中黙
遠く嵐ははげしく呼ばれ
この鉄橋はさかんにたゝかれてゐる
どすぐろい倒れゆく者等いつさんに重りあひ
やがて曇天は墜落しよう


  老将

渺たる陣営のほとりにたてば
にごりたつ瘴気やける霜
肉を剿《た》つみごと山川のうつろひに
せきばくたる内奥の夢も痺びれはてたり
最末人の眷属として積年ひとりこゝに曝らされ
あますなき悲惨の終焉をみ送るわれぞ
おゝ光なら無地とうめい乱射のなか
骨髄といふかの不覊なる情緒に過ぎ来たるわが哀傷の渇きたり
凄涼たる日のあしたにも莞爾として
鞭をなぐればわづかに虚しい影の鳴りひゞき
また捲きあげる黄塵にうたれ
がんとしたはるか山濤のいきづらに打ちむかふ
仰げば昇汞の天の底つねに巨いなる陥穽を愛せり
われの呪ふべきかな
噴火獣の餌食とならばなるも善いかな
いくたびか諸悪奴輩の憂愁に共感せるも
いまにして淋漓たるものをつらぬかんと欲情せり
風に乗る硝煙は風のいやはてに絶えんとして
火の陣営に黒一色の死を混じへ
なにものをもさらに混じえず
かくてもわれに参加するものはあらじ


  哈爾浜

埠頭《プリスタン》区ペカルナヤ
門牌不詳のあたり秋色深く
石だたみ荒くれてこぼるゝは何の穂尖ぞ
さびたる風雨の柵につらなり
擾々たる世の妄像ら傷つきたれば
なにごとの語るすべなし
巨いなる土地に根生えて罪あらばあれ
万筋なほ欲情のはげしさを切に疾むなり
在るべき故は知らず
我は一切の場所を捉ふるのみ
かくてまた我が砕く酒杯は砕かれんとするや
かかる日を哀憐の額もたげて訴ふる
優しさ著《し》るきいたましき
少女名は
風芝《ふおんず》とよべり
死の黄なるむざんの光なみ打ちて
麺麹つくる人の影なけれどもペカルナヤ
ひとしきり西寄りの風たち騒ぐなり


  海拉爾

凄まじき風の日なり
この日絶え間なく震撼せるは何ぞ
いんい
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