ている。時によっては、もっと老けて見え、場合によっては情熱的な壮年者にも見えるときもあった。けれども鋭い理智から来る一種の諦念といったようなものが、人柄の上に冴《さ》えて、苦味のある顔を柔和に磨いていた。
 濃く縮れた髪の毛を、程よくもじょもじょに分け仏蘭西《フランス》髭《ひげ》を生やしている。服装は赫《あか》い短靴を埃《ほこり》まみれにしてホームスパンを着ている時もあれば、少し古びた結城《ゆうき》で着流しのときもある。独身者であることはたしかだが職業は誰にも判らず、店ではいつか先生と呼び馴れていた。鮨の食べ方は巧者であるが、強《し》いて通がるところも無かった。
 サビタのステッキを床にとんとつき、椅子に腰かけてから体を斜に鮨の握り台の方へ傾け、硝子《ガラス》箱の中に入っている材料を物憂そうに点検する。
「ほう。今日はだいぶ品数があるな」
 と云ってともよ[#「ともよ」に傍点]の運んで来た茶を受け取る。
「カンパチが脂《あぶら》がのっています、それに今日は蛤《はまぐり》も――」
 ともよ[#「ともよ」に傍点]の父親の福ずしの亭主は、いつかこの客の潔癖な性分であることを覚え、湊が来ると無意識に俎板《まないた》や塗盤の上へしきりに布巾《ふきん》をかけながら云う。
「じゃ、それを握って貰おう」
「はい」
 亭主はしぜん、ほかの客とは違った返事をする。湊の鮨の喰べ方のコースは、いわれなくともともよ[#「ともよ」に傍点]の父親は判っている。鮪《まぐろ》の中とろ[#「とろ」に傍点]から始って、つめ[#「つめ」に傍点]のつく煮ものの鮨になり、だんだんあっさりした青い鱗《うろこ》のさかなに進む。そして玉子と海苔《のり》巻に終る。それで握り手は、その日の特別の注文は、適宜にコースの中へ加えればいいのである。
 湊は、茶を飲んだり、鮨を味わったりする間、片手を頬に宛てがうか、そのまま首を下げてステッキの頭に置く両手の上へ顎《あご》を載せるかして、じっと眺める。眺めるのは開け放してある奥座敷を通して眼に入る裏の谷合の木がくれの沢地か、水を撒《ま》いてある表通りに、向うの塀《へい》から垂れ下がっている椎《しい》の葉の茂みかどちらかである。
 ともよ[#「ともよ」に傍点]は、初めは少し窮屈な客と思っていただけだったが、だんだんこの客の謎めいた眼の遣《や》り処を見慣れると、お茶を運んで行ったときから鮨を喰い終るまで、よそばかり眺めていて、一度もその眼を自分の方に振向けないときは、物足りなく思うようになった。そうかといって、どうかして、まともにその眼を振向けられ自分の眼と永く視線を合せていると、自分を支えている力を暈《ぼか》されて危いような気がした。
 偶然のように顔を見合して、ただ一通りの好感を寄せる程度で、微笑して呉れるときはともよ[#「ともよ」に傍点]は父母とは違って、自分をほぐして呉れるなにか暖味のある刺戟のような感じをこの年とった客からうけた。だからともよ[#「ともよ」に傍点]は湊がいつまでもよそばかり見ているときは土間の隅の湯沸しの前で、絽《ろ》ざしの手をとめて、たとえば、作り咳《せき》をするとか耳に立つものの音をたてるかして、自分ながらしらずしらず湊の注意を自分に振り向ける所作をした。すると湊は、ぴくりとして、ともよ[#「ともよ」に傍点]の方を見て、微笑する。上歯と下歯がきっちり合い、引緊《ひきしま》って見える口の線が、滑かになり、仏蘭西髭の片端が目についてあがる――父親は鮨を握り乍《なが》らちょっと眼を挙げる。ともよ[#「ともよ」に傍点]のいたずら気とばかり思い、また不愛想な顔をして仕事に向う。
 湊はこの店へ来る常連とは分け隔てなく話す。競馬の話、株の話、時局の話、碁、将棋の話、盆栽の話――大体こういう場所の客の間に交される話題に洩れないものだが、湊は、八分は相手に話さして、二分だけ自分が口を開くのだけれども、その寡黙《かもく》は相手を見下げているのでもなく、つまらないのを我慢しているのでもない。その証拠には、盃の一つもさされると
「いやどうも、僕は身体を壊していて、酒はすっかりとめられているのですが、折角《せっかく》ですから、じゃ、まあ、頂きましょうかな」といって、細いがっしりとしている手を、何度も振って、さも敬意を表するように鮮かに盃を受取り、気持ちよく飲んでまた盃を返す。そして徳利を器用に持上げて酌をしてやる。その挙動の間に、いかにも人なつこく他人の好意に対しては、何倍にかして返さなくては気が済まない性分が現れているので、常連の間で、先生は好い人だということになっていた。
 ともよ[#「ともよ」に傍点]は、こういう湊を見るのは、あまり好かなかった。あの人にしては軽すぎるというような態度だと思った。相手客のほんの気まぐれに振り向けられ
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