た親しみに対して、ああまともに親身の情を返すのは、湊の持っているものが減ってしまうように感じた。ふだん陰気なくせに、一たん向けられると、何という浅ましくがつがつ人情に饑《う》えている様子を現わす年とった男だろうと思う。ともよ[#「ともよ」に傍点]は湊が中指に嵌《は》めている古代|埃及《エジプト》の甲虫《スカラップ》のついている銀の指輪さえそういうときは嫌味に見えた。
 湊の対応ぶりに有頂天になった相手客が、なお繰り返して湊に盃をさし、湊も釣り込まれて少し笑声さえたて乍らその盃の遣り取りを始め出したと見るときは、ともよ[#「ともよ」に傍点]はつかつかと寄って行って
「お酒、あんまり呑んじゃ体にいけないって云ってるくせに、もう、よしなさい」
 と湊の手から盃をひったくる。そして湊の代りに相手の客にその盃をつき返して黙って行って仕舞う。それは必しも湊の体をおもう為でなく、妙な嫉妬がともよ[#「ともよ」に傍点]にそうさせるのであった。
「なかなか世話女房だぞ、とも[#「とも」に傍点]ちゃんは」
 相手の客がそういう位でその場はそれなりになる。湊も苦笑しながら相手の客に一礼して自分の席に向き直り、重たい湯呑み茶碗に手をかける。
 ともよ[#「ともよ」に傍点]は湊のことが、だんだん妙な気がかりになり、却《かえ》って、そしらぬ顔をして黙っていることもある。湊がはいって来ると、つんと済して立って行って仕舞うこともある。湊もそういう素振りをされて、却って明るく薄笑いするときもあるが、全然、ともよ[#「ともよ」に傍点]の姿の見えぬときは物寂しそうに、いつもより一そう、表通りや裏の谷合の景色を深々と眺める。

 ある日、ともよ[#「ともよ」に傍点]は、籠《かご》をもって、表通りの虫屋へ河鹿《かじか》を買いに行った。ともよ[#「ともよ」に傍点]の父親は、こういう飼いものに凝る性分で、飼い方もうまかったが、ときどきは失敗して数を減らした。が今年ももはや初夏の季節で、河鹿など涼しそうに鳴かせる時分だ。
 ともよ[#「ともよ」に傍点]は、表通りの目的の店近く来ると、その店から湊が硝子《ガラス》鉢を下げて出て行く姿を見た。湊はともよ[#「ともよ」に傍点]に気がつかないで硝子鉢をいたわり乍ら、むこう向きにそろそろ歩いていた。
 ともよ[#「ともよ」に傍点]は、店へ入って手ばやく店のものに自分の買うものを注文して、籠にそれを入れて貰う間、店先へ出て、湊の行く手に気をつけていた。
 河鹿を籠に入れて貰うと、ともよ[#「ともよ」に傍点]はそれを持って、急いで湊に追いついた。
「先生ってば」
「ほう、とも[#「とも」に傍点]ちゃんか、珍らしいな、表で逢うなんて」
 二人は、歩きながら、互いの買いものを見せ合った。湊は西洋の観賞魚の髑髏魚《ゴーストフィッシュ》を買っていた。それは骨が寒天のような肉に透き通って、腸が鰓《えら》の下に小さくこみ上っていた。
「先生のおうち、この近所」
「いまは、この先のアパートにいる。だが、いつ越すかわからないよ」
 湊は珍らしく表で逢ったからともよ[#「ともよ」に傍点]にお茶でも御馳走しようといって町筋をすこし物色したが、この辺には思わしい店もなかった。
「まさか、こんなものを下げて銀座へも出かけられんし」
「ううん、銀座なんかへ行かなくっても、どこかその辺の空地で休んで行きましょうよ」
 湊は今更のように漲《みなぎ》り亘る新樹の季節を見廻し、ふうっと息を空に吹いて
「それも、いいな」
 表通りを曲ると間もなく崖端に病院の焼跡の空地があって、煉瓦塀《れんがべい》の一側がローマの古跡のように見える。ともよ[#「ともよ」に傍点]と湊は持ちものを叢《くさむら》の上に置き、足を投げ出した。
 ともよ[#「ともよ」に傍点]は、湊になにかいろいろ訊いてみたい気持ちがあったのだが、いまこうして傍に並んでみると、そんな必要もなく、ただ、霧のような匂いにつつまれて、しんしんとするだけである。湊の方が却って弾《はず》んでいて
「今日は、とも[#「とも」に傍点]ちゃんが、すっかり大人に見えるね」
 などと機嫌好さように云う。
 ともよ[#「ともよ」に傍点]は何を云おうかと暫《しばら》く考えていたが、大したおもいつきでも無いようなことを、とうとう云い出した。
「あなた、お鮨《すし》、本当にお好きなの」
「さあ」
「じゃ何故来て食べるの」
「好きでないことはないさ、けど、さほど喰べたくない時でも、鮨を喰べるということが僕の慰みになるんだよ」
「なぜ」
 何故、湊が、さほど鮨を喰べたくない時でも鮨を喰べるというその事だけが湊の慰めとなるかを話し出した。
 ――旧《ふる》くなって潰《つぶ》れるような家には妙な子供が生れるというものか、大きな家の潰れるときというものは、
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