中へ入れた。
 白く透き通る切片は、咀嚼《そしゃく》のために、上品なうま味に衝《つ》きくずされ、程よい滋味の圧感に混って、子供の細い咽喉へ通って行った。
「今のは、たしかに、ほんとうの魚に違いない。自分は、魚が喰べられたのだ――」
 そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを噛み殺したような征服と新鮮を感じ、あたりを広く見廻したい歓びを感じた。むずむずする両方の脇腹を、同じような歓びで、じっとしていられない手の指で掴み掻いた。
「ひ ひ ひ ひ ひ」
 無暗《むやみ》に疳高《かんだか》に子供は笑った。母親は、勝利は自分のものだと見てとると、指についた飯粒を、ひとつひとつ払い落したりしてから、わざと落ちついて蠅帳のなかを子供に見せぬよう覗いて云った。
「さあ、こんどは、何にしようかね……はてね……まだあるかしらん……」
 子供は焦立《いらだ》って絶叫する。
「すし! すし」
 母親は、嬉しいのをぐっと堪える少し呆けたような――それは子供が、母としては一ばん好きな表情で、生涯忘れ得ない美しい顔をして
「では、お客さまのお好みによりまして、次を差上げまあす」
 最初のときのように、薔薇いろの手を子供の眼の前に近づけ、母はまたも手品師のように裏と表を返して見せてから鮨を握り出した。同じような白い身の魚の鮨が握り出された。
 母親はまず最初の試みに注意深く色と生臭の無い魚肉を選んだらしい。それは鯛《たい》と比良目《ひらめ》であった。
 子供は続けて喰べた。母親が握って皿の上に置くのと、子供が掴み取る手と、競争するようになった。その熱中が、母と子を何も考えず、意識しない一つの気持ちの痺《しび》れた世界に牽《ひ》き入れた。五つ六つの鮨が握られて、掴み取られて、喰べられる――その運びに面白く調子がついて来た。素人《しろうと》の母親の握る鮨は、いちいち大きさが違っていて、形も不細工だった。鮨は、皿の上に、ころりと倒れて、載せた具《ぐ》を傍へ落すものもあった。子供は、そういうものへ却って愛感を覚え、自分で形を調えて喰べると余計おいしい気がした。子供は、ふと、日頃、内しょで呼んでいるも一人の幻想のなかの母といま目の前に鮨を握っている母とが眼の感覚だけか頭の中でか、一致しかけ一重の姿に紛れている気がした。もっと、ぴったり、一致して欲しいが、あまり一致したら恐ろしい気もする。
 自分が
前へ 次へ
全16ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング