薔薇《ばら》いろの掌を差出して手品師のように、手の裏表を返して子供に見せた。それからその手を言葉と共に調子づけて擦《こす》りながら云った。
「よくご覧、使う道具は、みんな新しいものだよ。それから拵《こしら》える人は、おまえさんの母さんだよ。手はこんなにもよくきれいに洗ってあるよ。判ったかい。判ったら、さ、そこで――」
母親は、鉢の中で炊きさました飯に酢を混ぜた。母親も子供もこんこん噎《む》せた。それから母親はその鉢を傍に寄せて、中からいくらかの飯の分量を掴み出して、両手で小さく長方形に握った。
蠅帳の中には、すでに鮨の具《ぐ》が調理されてあった。母親は素早くその中からひときれ[#「ひときれ」に傍点]を取出してそれからちょっと押えて、長方形に握った飯の上へ載せた。子供の前の膳の上の皿へ置いた。玉子焼鮨だった。
「ほら、鮨だよ、おすしだよ。手々で、じかに掴《つか》んで喰べても好いのだよ」
子供は、その通りにした。はだかの肌をするする撫《な》でられるようなころ合いの酸味に、飯と、玉子のあまみ[#「あまみ」に傍点]がほろほろに交ったあじわいが丁度舌一ぱいに乗った具合――それをひとつ喰べて仕舞うと体を母に拠りつけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめた香湯のように子供の身うちに湧いた。
子供はおいしいと云うのが、きまり悪いので、ただ、にいっと笑って、母の顔を見上げた。
「そら、もひとつ、いいかね」
母親は、また手品師のように、手をうら返しにして見せた後、飯を握り、蠅帳から具の一片《ひとき》れを取りだして押しつけ、子供の皿に置いた。
子供は今度は握った飯の上に乗った白く長方形の切片を気味悪く覗いた。すると母親は怖くない程度の威丈高になって
「何でもありません、白い玉子焼だと思って喰べればいいんです」
といった。
かくて、子供は、烏賊《いか》というものを生れて始めて喰べた。象牙《ぞうげ》のような滑らかさがあって、生餅より、よっぽど歯切れがよかった。子供は烏賊鮨を喰べていたその冒険のさなか、詰めていた息のようなものを、はっ、として顔の力みを解いた。うまかったことは、笑い顔でしか現わさなかった。
母親は、こんどは、飯の上に、白い透きとおる切片をつけて出した。子供は、それを取って口へ持って行くときに、脅かされるにおいに掠《かす》められたが、鼻を詰らせて、思い切って口の
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