人のかいた油絵がかゝつてゐる。その間に皆三の好みらしい現代式の軽快な本箱が挟まつてゐた。しかし棚の上にはまた物々しい桐《きり》の道具箱が、油で煮たやうな色をして沢山《たくさん》並んでゐた。
皆三は、其処《そこ》で顕微鏡を覗《のぞ》いてゐるか、昆虫の標本をいぢつてるかしてゐた。無口だが、人なつこい様子でお涌に向つた。額《ひたい》も頬《ほお》もがつしりしてゐて、熱情家らしい黒目勝ちの大きい眼が絶えず慄《ふる》へてゐるやうに見えた。沈鬱《ちんうつ》と焦躁《しょうそう》が、ときどきこの少年に目立つて見えた。
お涌も皆三にむかつてゐると、あれほど気嵩《きがさ》で散漫だと思ふ自分がしつとり落付き、こまかく心が行届いて、無我と思へるほど自分には何にも無くなり、ひたすら皆三の身の囲りの面倒を見てやり度《た》くなるのであつた。
「だらしがないわ皆三さん。着物の脊筋《せすじ》を、こんなに曲げて着てるつてないわ」
「まるで赤ン坊」
お涌は皆三の生活に対する不器用さを見て、いつもかういつて笑つた。しかし、その赤ん坊が自分にまともにむける眼には、最初皆三に逢《あ》つた晩に、彼の声が浸《し》みさせたと同様な慈《いつく》しみがある――お涌はそれに逢ふと、柔軟なリズムの線がひとりでに自分の体に生み出され、われとしもなくその線の一つを取上げて、自分の姿をそれに沿へる。それは自分でも涙の出るほど女らしくしほらしいものであつた。だがお涌はさういふ自分になるとき、宿命とかいふものに見込まれたやうな前途の自由な華やかな道を奪ひ去られたやうな、窮屈な寂しい気もちもあつた。
(これが、恋とか、愛とかいふものかしらん。いやそんなことは無い。)
笑ひ声や冗談に開け放たれた家庭の空気に育ち、心に蟠《わだかま》りなどは覚えたこともないお涌は、恋愛などといふ入り組んだ重苦しいものは、今の世にあるものぢやないと首を振つた。
ほとんどきまつた話はしたことのない四五年間の少年少女の交際の間にも、お涌はこの家の神秘な密閉的な原因が判るやうな気がした。
先祖は十八大通《じゅうはちだいつう》といはれた江戸の富豪で、また風流人の家筋に当り、三月の雛祭《ひなまつ》りには昔の遺物の象牙《ぞうげ》作りの雛人形が並べられた。明治の初期には皆三の祖父に当る器量人が、銀行の頭取などして、華々しく社交界にもうつて出たが、後嗣《こうし》はひとりの娘なので、両親は娘のために銀行の使用人の中から実直な青年を選んで娘の婿に取つた。それが皆三の両親である。三人の男の子が生れた頃、どういふものか、祖父は突然その婿を離縁してやがて自分も歿《ぼっ》した。
祖父は、あとでわかつたのであるが、強い酒に頭が狂つてゐたのであるさうだ。さうと知らず、離縁された皆三たちの父は、ただぽかんとして、葉山の別荘にひとりで暮してゐるうち、ある日海水浴をすると、急に心臓|麻痺《まひ》が来て死んでしまつた。
「僕が三つのときだ」
皆三は何の感慨もなささうに云つた。
何とも理由づけられない災難に逢《あ》つたのち、男の子三人抱へた寡婦として自分を発見した皆三の母親のおふみは、はじめて世の中の寂しいことや責任の重いことを覚つた。さうなるまでは、まつたく中年まで、この母親はお嬢さん育ちのままであつた。知り合ひのなかから相談相手として、三四人の男女も出て来たのであるが、成績は面白くなかつた。遺産はみすみす減つて行くばかりだつた。母親は怯《おび》えと反抗心から、その後は羽がひの嘴《くちばし》もしつかり胴へ掻《か》き合せた鳥のやうに、世間といふものから殆《ほとん》ど隔絶して、家といふものと子供とを、ただその胸へ抱き籠《こ》めるやうな生活態度を執《と》るやうになつた。
祖父に似て派手で血の気の多い長男は、海外へ留学に出たままずつと帰らない。実直で父親似と思つた次男は、思ひがけない芸人で、年上の恋人が出来、それと同棲《どうせい》するために、関西へ移つたまま音信不通となつた。母親の羽がひの最後の力は、ただ一人残つた末子の皆三の上に蒐《あつ》められた。
「おまへが、もしもの事をしたら、お母さんは生きちやゐませんよ」
少年の皆三を前にしておふみは、かういつて涙をぽろ/\零《こぼ》した。皆三は血の気で頭の皮膚が破れるかと思ふばかり昂奮《こうふん》して、黙つて座を立つて行つて、土蔵の中の机の前に腰かけた。
そこで別の世界の子供の声のやうに「蝙蝠来い」と喚《わめ》くのを夢のやうに聞いた。中にも軽く意表の外に姿を閃《ひらめ》かすお涌の姿を柳の葉の間から見て、皆三はとても自分と一しよに遊べるやうな少女とは思へなかつた……だが、さういふ少女のお涌が持つて歩き出したあの黄昏時《たそがれどき》の蝙蝠が、何故《なぜ》ともなく遮二無二《しゃにむに》皆三には欲しくて堪《
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