湛《たた》へ、夏の星が、強《し》ひて在所を見つけようとすると却《かえ》つて判らなくなる程かすかに瞬《またた》き始めてゐる。
 この時、落葉ともつかず、煤《すす》の塊《かたまり》ともつかない影が、子供たちの眼に近い艶沢《つや》のある宵闇の空間に羽撃《はばた》き始めた。その飛び方は、気まぐれのやうでもあり、舵《かじ》がなくて飛びあへぬもののやうでもある。けれども迅《はや》い。ここに消えたかと思ふと、思はぬ軒先《のきさ》きに閃《ひら》めいてゐる。いつかお涌も子供達に交《まじ》つて「蝙蝠来い」と喚きながら今更めづらしく毎夜の空の友を目で追つてゐると、蝙蝠も今日の昼に水替へした井戸の上へ、ひら/\飛び近づき、井戸の口を覗《のぞ》き込んではまた斜に外れ上るやうに見える。お涌は蝙蝠が井戸の中の新しく湧《わ》いた水を甞《な》めたがつてゐるのかとも思つた。ふと、今しがた自分が覗いた生々として落ちついた井の底の世界を、蝙蝠もまた、あこがれてゐるのではあるまいか――
「かあいさうな、夕闇の動物」
 お涌は、この小さい動物をいぢらしいものに感じた。
「捕つた/\」
 といふ声がして、その方面へ子供が、わーつと喚《わめ》き寄つて行つた。桶屋《おけや》の小僧の平太郎が蝙蝠の一ぴきを竿《さお》でうち落して、両翅《りょうばね》を抓《つま》み拡げ、友達のなかで得意顔をしてゐる。薄く照して来る荒物屋の店の灯《ほ》かげでお涌がすかして見ると、小さい生きものは、小鼠《こねずみ》のやうな耳のある頭を顔中口にして、右へ左へ必死に噛《か》みつかうとしてゐる。細くて徹《とお》つたきいきいといふ鳴声を挙げる。「ほい畜生《ちくしょう》」と云つて平太郎は巧《たくみ》に操りながら、噛みつかれないやうに翅を延《のば》して避ける。ぴんと張り拡げられた薄墨いろの肉翅《にくし》のまん中で、毛の胴は異様に蠢《うごめ》き、小鳥のやうな足は宙を蹴《け》る。二つの眼は黒い南京玉《なんきんだま》のやうに小さくつぶらに輝いて、脅《おび》えてゐるのかと見ると嬉《うれ》しさうにも見える。またきいきいと鳴く。その口の中は赤い。
 お涌は、何か、肉体のうちを掠《かす》めるむづむづしたやうな電気を感じ、残忍な征服慾を覚え、早くこの不安なものの動作を揉《も》み潰《つぶ》してしまひ度《た》いやうな衝動にさへ駆られて、浴衣《ゆかた》の両|袂《たもと》を握つ
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