を白日の不思議のように見上げていた。小初は急に突きのめされるような悲哀《ひあい》に襲《おそ》われた。自分の肉体のたった一つの謬着物《こうちゃくぶつ》をもぎ取られて、永遠に帰らぬ世界へ持ち去られるような気持ちに、小初は襲われた。
 小初もあわてて立ち上った。小初は薫の後を追って薫の腕へぎりぎりと自分の腕を捲きつけた。
「薫さん、だけど薫さん、遠泳会にはきっと来てね。精いっぱい泳ぎっこね。それでお訣《わか》れならお訣れとしようよ」
「うん」
「きっとよ、ね、きっと」
「うん、うん」
 そして、薫が萎《しお》れてのろのろと遠ざかって行くのが今さら身も世もなく、小初には悲しくなった。
 小初は元の砂地に坐《すわ》って薫の後姿を見送った。風のないしんとした蘆洲のなかへ薫の姿は見えなくなって行った。
 小初は眠れなかった。急に重くなって来た気圧で、息苦しく、むし暑く、寝返りばかりうっていたせいでもあるが、とてもじっとしていられない悲しい精力が眠気を内部からしきりに小突き覚ました。傍で寝ている酒気を帯びた父の鼾《いびき》が喉《のど》にからまって苦しそうだ。父は中年で一たん治まった喘息《ぜんそく》が、またこの頃きざして来た。昨今《さっこん》の気候の変調が今夜は特別苦しそうだ。明日の遠泳会にも出られそうでない……。だが小初にはそんなことはどうでも、遠泳会の後に控《ひか》えている貝原との問題を、どう父に打ち明けたものかしらと気づかわれる。薫との辛《つら》い気持も尾《お》をひいているのに、父を見れば父を見るで、また父の気持ちを兼ねなければならない……小初は心づかれが一身に担い切れない思いがする。父は娘を神秘な童女に思い做《な》して、自家|偶像崇拝慾《ぐうぞうすうはいよく》を満足せしめたい旧家の家長本能を、貝原との問題に対してどう処置するであろうか。自分の娘は超人的《ちょうじんてき》な水泳の天才である。この誇《ほこ》りが父の畢世《ひっせい》の理想でもあり、唯一《ゆいいつ》の事業でもあった。そのため、父は母の歿後《ぼつご》、後妻も貰《もら》わないで不自由を忍《しの》んで来たのであったが、蔭《かげ》では田舎者と罵倒《ばとう》している貝原から妾《めかけ》に要求され、薫と男女関係まであることを知ったなら父の最後の誇りも希望も※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り落されてしまうのである。
 うっかり打ちあけられるものではない……。だが都会人の気の弱いものが、一たん飜《ひるがえ》ると思い切った偽悪者《ぎあくしゃ》になることも、小初はよく下町で見受けている例である。貝原もそれを見越《みこ》して父に安心しているのではないか。案外もろく父もそこに陥《お》ちいらぬとも限らない。陥ちいってくれることを自分は父に望むのか。それを望むよりほか二人の生きて行く道はないのか……。
 船虫が蚊帳の外の床《ゆか》でざわざわ騒《さわ》ぐ。野鼠《のねずみ》でも柱を伝って匍い上って来たのだろうか。小初は団扇《うちわ》で二つ三つ床を叩《たた》いて追う。その音に寝呆《ねぼ》けて呼びもしない父が、「え?」と返事をして寝返りをうつ、うつろな声。――あわれな父とそしてあわれな娘。
 小初は父の脱いだ薄い蒲団をそっと胸元へ掛け直してやった。
 小初は闇《やみ》のなかでぱっちり眼を開けているうちに、いつか自分の体を両手で撫《な》でていた。そして嗜好《しこう》に偏《かたよ》る自身の肉体について考え始めた。小初は子供のうち甘いものを嫌って塩せんべいしか偏愛《へんあい》して喰べようとしなかった自分を思い出した。自分は肉体も一種を限ってのほか接触には堪《た》えかねる素質を持っているのではないかと考えられて来た。自分は薫をさまで心で愛しているとは思わない。それだのになぜこうまで薫の肉体に訣れることが悲しいのか、単純な何の取柄《とりえ》もない薫より、世の中をずっと苦労して来た貝原にむしろ性格の頼《たの》み甲斐《がい》を感じるのに、肉体ばかりはかえって強く離反《りはん》して行こうとするのが、今日このごろはなおさらまざまざ判って来た。
 自分の肉体がむしろ憎《にく》い――一方の生活慾を満足させようとあせりながら、その方法(貝原に買われること)に離反する。矛盾《むじゅん》と我儘《わがまま》に自分を悩《なや》め抜く自分の肉体が今は小初に憎くなった。――こんな体……こんな私……いっそなくなってしまえばいい……。小初は子供のように野蛮《やばん》に自分の体の一ヶ処を捻《ひね》ってみた。痛いのか情けないのか、何か恨《うら》みに似たような涙がするすると流れ出た。また捻った……また捻った……すると思考がだんだん脱落していって頭が闇の底の方へ楽々と沈んで行った。
 小初は朝早く眼が覚めた。空は黄色く濁《にご》って、気圧
前へ 次へ
全11ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング