化の猛威に対して、少しも復讐《ふくしゅう》の気持が起らず、かえって、その逞ましさに慄《ふる》えて魅着《みちゃく》する自分は、ひょっとして、大変な錯倒症《さっとうしょう》の不良|娘《むすめ》なのではあるまいか。だが何といっても父や自分の魂《たましい》の置場はあそこ――都会――大東京の真中よりほかにないのだから仕方がない、是非もない……。
「小初先生。時間ですよ。翡翠《ショービン》の飛込みのお手本をやって下さい」
 水だらけの子供を十人ばかり乗せ、櫓台の下へ田舟《たぶね》を漕ぎ近づけて、材木屋の貝原が、大声を挙げた。飛騨訛《ひだなま》りがそう不自然でなく東京弁に馴致《じゅんち》された言葉つきである。
「お手本をも一度みんなに見せといて、それからやらせます」
 脂肪《しぼう》づいた小富豪《しょうふごう》らしい身体《からだ》に、小初と同じ都鳥の紋《もん》どころの水着を着て、貝原はすっかり水泳場の助手になり済ましている。小初はいつもよりいくらか滑《なめ》らかに答えた。
「いますぐよ。少しぐらい待ってよ」
 だが、息づまるような今までの気持からいくらか余裕《よゆう》をつけようとして、小初はもう一度放水路の方を見やった。一めん波が菱立《ひしだ》って来た放水路の水面を川上へ目を遡《さかのぼ》らせて行くと、中川筋と荒川筋の堺《さかい》の堤《つつみ》の両端を扼《やく》している塔橋型《とうきょうがた》の大水門の辺に競走のような張りを見せて舟々は帆《ほ》を上げている。小初の声は勇んだ。
「確かだわ。今晩は夕立ち、明日から四五日お天気は大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「まあ、そんなところですなあ。遠泳会はうまく行くね」
 掌《てのひら》を差し出して風の脈に触《ふ》れてみてから貝原は相槌《あいづち》を打った。
 肩や両脇《りょうわき》を太紐《ふとひも》で荒くかが[#「かが」に傍点]って風の抜《ぬ》けるようにしてある陣羽織《じんばおり》式の青海流の水着を脱《ぬ》ぐと下から黒の水泳シャツの張り付いた小初の雄勁《ゆうけい》な身体が剥《む》き出された。こういう職務に立つときの彼女《かのじょ》の姿態に針一|突《つ》きの間違いもなく手間の極致を尽《つく》して彫《ほ》り出した象牙《ぞうげ》細工のような非人情的な完成が見られた。人間の死体のみが持つ虚静の美をこの娘は生ける肉体に備えていた。小初は、櫓板の端にすらり
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