いかん」
河口西側の蘆洲をかすめて靄の隙《すき》から市の汚水《おすい》処分場が見え出した。
ここまで来ると潮はかなり引いていて、背の高い子供は、足を延ばすと、爪先《つまさき》がちょいちょい底の砂に触れた。
小初は振り返って云った。
「さあ、ここからみんな抜き手よ」
やがて一行は扇《おうぎ》形に開く河口から漠々《ばくばく》とした水と空間の中へ泳ぎ入った。小初はだんだん泳ぎ抜き、離れて、たった一人進んでいるのか退いているのか、ただ無限の中に手足を動かしている気がし出した。小初が無闇に泳ぎ抜くのは、小初が興奮しているからである。初め小初は時々自分の側面に出て来る薫の肉体に胸が躍《おど》った。が、その感じが貝原の小初を呼び立てる高声に交り合ううち、両方から同時に受ける感じがだんだんいまわしくなって来た。反感のような興奮がだんだん小初の心身を疲らせて来ると薫の肉体を見るのも生々しい負担になった。貝原の高声もうるさくなった。小初は無闇やたらに泳ぎ出した。生徒達の一行にさえ頓着なしに泳ぎだした。するうち小初に不思議な性根《しょうね》が据《すわ》って来た。
こせこせしたものは一切|抛《な》げ捨ててしまえ、生れたてのほやほやの人間になってしまえ。向うものが運命なら運命のぎりぎりの根元のところへ、向うものが事情なら、これ以上割り切れない種子のところに詰め寄って、掛値《かけね》なしの一騎打《いっきうち》の勝負をしよう。この勝負を試すには、決して目的を立ててはいけない。決して打算をしてはいけない。自分の一切を賽《さい》にして、投げてみるだけだ。そこから本当に再び立ち上がれる大丈夫な命が見付かって来よう。今、なんにも惜《おし》むな。今、自分の持ち合せ全部をみんな抛げ捨てろ――一切合財を抛げ捨てろ――。
渾沌未分…………
渾沌未分…………
小初がひたすら進み入ろうとするその世界は、果てしも知らぬ白濁《はくだく》の波の彼方《かなた》の渾沌未分の世界である。
「泳ぎつく処《ところ》まで……どこまでも……どこまでも……誰も決してついて来るな」
と口に出しては云わなかったが、小初は高まる波間に首を上げて、背後の波間に二人の男のついて来るのを認めた。薫は黙って抜き手を切るばかり、貝原は懸命《けんめい》な抜き手の間から怒鳴り立てた。
「ばか……どこまで行くんだ……ばか、きちがい……小初
前へ
次へ
全21ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング