ある。
うっかり打ちあけられるものではない……。だが都会人の気の弱いものが、一たん飜《ひるがえ》ると思い切った偽悪者《ぎあくしゃ》になることも、小初はよく下町で見受けている例である。貝原もそれを見越《みこ》して父に安心しているのではないか。案外もろく父もそこに陥《お》ちいらぬとも限らない。陥ちいってくれることを自分は父に望むのか。それを望むよりほか二人の生きて行く道はないのか……。
船虫が蚊帳の外の床《ゆか》でざわざわ騒《さわ》ぐ。野鼠《のねずみ》でも柱を伝って匍い上って来たのだろうか。小初は団扇《うちわ》で二つ三つ床を叩《たた》いて追う。その音に寝呆《ねぼ》けて呼びもしない父が、「え?」と返事をして寝返りをうつ、うつろな声。――あわれな父とそしてあわれな娘。
小初は父の脱いだ薄い蒲団をそっと胸元へ掛け直してやった。
小初は闇《やみ》のなかでぱっちり眼を開けているうちに、いつか自分の体を両手で撫《な》でていた。そして嗜好《しこう》に偏《かたよ》る自身の肉体について考え始めた。小初は子供のうち甘いものを嫌って塩せんべいしか偏愛《へんあい》して喰べようとしなかった自分を思い出した。自分は肉体も一種を限ってのほか接触には堪《た》えかねる素質を持っているのではないかと考えられて来た。自分は薫をさまで心で愛しているとは思わない。それだのになぜこうまで薫の肉体に訣れることが悲しいのか、単純な何の取柄《とりえ》もない薫より、世の中をずっと苦労して来た貝原にむしろ性格の頼《たの》み甲斐《がい》を感じるのに、肉体ばかりはかえって強く離反《りはん》して行こうとするのが、今日このごろはなおさらまざまざ判って来た。
自分の肉体がむしろ憎《にく》い――一方の生活慾を満足させようとあせりながら、その方法(貝原に買われること)に離反する。矛盾《むじゅん》と我儘《わがまま》に自分を悩《なや》め抜く自分の肉体が今は小初に憎くなった。――こんな体……こんな私……いっそなくなってしまえばいい……。小初は子供のように野蛮《やばん》に自分の体の一ヶ処を捻《ひね》ってみた。痛いのか情けないのか、何か恨《うら》みに似たような涙がするすると流れ出た。また捻った……また捻った……すると思考がだんだん脱落していって頭が闇の底の方へ楽々と沈んで行った。
小初は朝早く眼が覚めた。空は黄色く濁《にご》って、気圧
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