髯《そぜん》を貯えた父の立派な顔が都会の紅塵《こうじん》に摩擦《まさつ》された興奮と、疲《つか》れとで、異様に歪《ゆが》んで見えた。もしかすると、どこかで一杯《いっぱい》ひっかけた好きな洋酒の酔《よ》いがまだ血管の中に残っているのかも知れない。
 都会育ちの美食家の父娘は、夕飯の膳《ぜん》を一々|伊勢丹《いせたん》とかその他|洲崎《すざき》界隈の料理屋から取り寄せた。
 自転車で岡持《おかも》ちを運んで来る若者は遠路をぶつぶつ叱言《こごと》いったが、小初の美貌と、父親が宛《あ》てがう心づけとで、この頃《ごろ》はころころになって、何か新らしく仕込んだ洒落《しゃれ》の一つも披露《ひろう》しながら、片隅《かたすみ》の焜炉《こんろ》で火を焙《おこ》して、お椀《わん》の汁《しる》を適度に温め、すぐ箸《はし》が執《と》れるよう膳を並《なら》べて帰って行く。
「不味《まず》いものを食うくらいならいっそ、くたばった方がいい」
 これは、美味のないとき、膳の上の食品を罵倒《ばとう》する敬蔵の云《い》い草《ぐさ》だが、ひょっとすると、それが辛辣《しんらつ》な事実で父娘の身の上の現実ともなりかねない今日この頃では、敬蔵もうっかり自分の言葉癖《ことばぐせ》は出しにくかった。父娘は夜な夜な「最後の晩餐《ばんさん》」という敬虔《けいけん》な気持で言葉少なに美味に向った。
 いったいが言葉少なの父娘だった。わけて感情を口に出すのを敬蔵は絶対に避《さ》けた。そういうことは嫌味《いやみ》として旧東京の老人はついにそれに対する素直な表現欲を失っていた。感情の表現にはむしろ反語か、遠廻しの象徴《しょうちょう》の言葉を使った。
「隣《となり》近所にお化粧《けしょう》のアラを拾うやつもなくてさばさばしたろう」
 これが唯一《ゆいいつ》の、娘も共に零落《れいらく》させた父の詫《わ》びの表明でもあり、心やりの言葉でもあった。小初は父の気持ちを察しないではないが、「何ぼ何でもあんまり負け惜《お》しみ過ぎる」と悲しく疎《うと》まれた。
 今夜はまたとても高踏的《こうとうてき》な漢籍《かんせき》の列子の中にあるという淵《ふち》の話を持ち出して父は娘に対する感情をカモフラージュした。
「淵には九つの性質がある。静水をじっと湛《たた》えているのも淵だ。流れて来た水のしばらく淀《よど》むところも淵だ。底から湧《わ》いた水が
前へ 次へ
全21ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング