来て見なされ」
 老師は、にこやかに言つて小僧に茶を運ばせた。
 それ以来、宗右衛門の泰松寺通ひの噂《うわさ》が添田家の内外に高くなつた。宗右衛門は商売も追々番頭にまかせ勝ちになつて行つた。


 夏もだん/\ふけて行つた。仏教の初歩の因果応報説が極《ご》くわづかに宗右衛門の耳に這入《はい》つて来た。過去の悪業《あくごう》が、かりに娘の異状となつて現はれたと観念することは出来ぬかと老師は宗右衛門に問ふてみた。
「めつさうなこと、私は人の命をあやめたことも、人の品物をかすめた覚えもありません」
 宗右衛門は不断の剛情を思はず出して殆《ほとん》ど老師に反抗的な口調で言つた。老師は手を振つて静かに説いた。
「それは違ふ、眼にも見えず、形にもあらはれぬ業《ごう》といふ重荷を、われ/\はどれほど過ぎ来《こ》しかたに人にも自身にも荷《にな》はせてゐるか知れぬ」
 老師の重々しい口調の下に宗右衛門はうちひしがれた。
「さうで御座《ござ》いませうかなあ。私が剛情者といふことは自分でもはつきり判ります。が、それでまたあの身代《しんだい》をこしらへましたので、剛情も別に悪いことゝは思ひませんでしたが」

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