どうあつても彼は老師に話せなかつた。彼は老師に逢《あ》つて「打ち明けられぬ負担」を漸く感じ出した。
 その負担をのがれる為めと、やゝもすれば身辺に近づいて来る画像の誘惑から遠ざかる為めと、もひとつ彼の思ひつきの為めに彼は翌年の春の初《はじめ》、寺のうしろの畑地の隅に居を移した。家からも老夫婦の飯炊きを呼んだ。畑地は宗右衛門の所有地であつた。おびたゞしい牡丹《ぼたん》の根を諸方から彼は集めた。遠方から植木師が来て泊り込み、村の百姓を代る代る手伝ひに雇つた。初夏となつて畑一ぱいに牡丹の花が咲き盛つた。村の者や、めつたに動じない老師まで眼を見張つた。宗右衛門の苦渋の底から微笑が浮んだ。彼は誰にともなく呟《つぶや》いた。
「仏様へ御供養《ごくよう》でございますぞい」
 彼は、この上、やがて何事かの業因になるとも知れぬ我が家産を、斯《こ》んなにして散じて行くのにも幾らかの安心を持つた。
 寺の周囲の他人の所有地が、次へ次へと驚くべき高価で宗右衛門に買ひ移されて行つた。
 藤《ふじ》、あやめ、菊、蓮《はす》。桜も楓《かえで》も桃も、次ぎ次ぎに季節々々の盛りを見せた。寺の周囲を見事、極楽画の一部に象《かたど》り、結構華麗に仕立て上げた。けれども宗右衛門の心は矢張り慰まなかつた。否、むしろ追々|荒《すさ》んで行くのであつた。折角《せっかく》、精出して仕立てた英《はなぶさ》を片はしからむしつて歩く日もあつた。隠居所の扉を閉め切つて、外の景色に眼をふれまいとするやうな日もあつた。人々は寺の周囲の勝景をよろこんだ。が、それと同時に、宗右衛門の狂気の沙汰《さた》を愈々《いよいよ》、噂《うわさ》に高めた。
 三年目の年が明けて、梅もぽつ/\咲き初めた頃、添田家縁者一統の総代が、泰松寺へ出頭して、宗右衛門の家事不取締りから、使用人の怠慢、家業|破綻《はたん》の条々を縷述《るじゅつ》し、その上、娘お小夜の急病を報じて宗右衛門の自宅へ復帰することを老師に願ひ出《い》でた。それは丁度宗右衛門が、荒廃と疲労の極度に達した自分の最後の処置を老師の前に哀訴したと殆ど同時であつた。もちろん家に残した娘達への回避の念、物質本位の家業に対する倦厭《けんえん》の情は、いつもの通りくりかへして述べられた。たゞ、壁画に就《つい》ての羞恥《しゅうち》ばかりは始めて老師の聞くところであつた。彼はそれを打ち明ける辛《つら》さを敢《あえ》てするまで、老師への哀訴の情が、切迫してしまつたのである。老師は、両方の縷述と哀訴を懇切に聴き取つた。そして、今後一切を、自分の指図のもとに取り行ふやうかたく双方ともに約束させた。
「現実を回避せず、あくまでもそれに直面して人生の本然を味得すること。本当に生きる強味は其処《そこ》から出る」
 これを判り易《やす》く飜訳《ほんやく》して老師は宗右衛門に会得《えとく》させた。その具体的な手段として宗右衛門の居室は寺の花畑から不具の娘達の直ぐ傍に移された。気儘《きまま》な妄想を払つて不具に直面し、不具の実在性を確《し》つかり見詰めよといふのであつた。
「欲望を正当に生かすこと」
 これを判り易く飜訳して、添田家親類一統へ説き聞かせた。即刻、宗右衛門に適当な後妻を、あらゆる方面へ彼自身にも親類一統へも物色させた。
「個性の使命をはたすこと、自身の力量に適応した家業に、善悪貴賤の差別なし」
 これを宗右衛門にあてはめる以上、彼は急ぎ家業に復帰しなければならないのであつた。
 その年の初夏、宗右衛門は新らしくめとつた後妻と、不具の娘二人を連れて或る有名な遠国の温泉へ行つた。一ヶ月以上の滞在で彼の健康も、病後のお小夜の健康も、ずつと立ち戻つた。
 彼は再び家業に就《つ》いた。家運は見る見る旧に戻つた。寺の花園は四季年々咲いた。或年の初夏、牡丹《ぼたん》が特別に見事な盛りを見せた年であつた。添田家の花宴が其処《そこ》で催された。引きめぐらした幔幕《まんまく》の内、正面には泰松寺の老師、宗右衛門自身の左右には不具の娘が美装して二人並び、ずつと下つて上品な年増盛りの彼の後妻がつゝましく座つた。そのほか親類一統、大勢の村民達も招かれた。
 たゞ宗右衛門は、以前よりずつと沈黙になり、そして痩《や》せた――それは彼が老来の衰へを示すものではなかつた。引きしまつた彼の上皮の下には、生き生きとして落ち付いた力が寂しく光つてゐるのであつた。
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(後記)
王朝時代の末期になつて、文化の爛熟《らんじゅく》による人間の官能と情感がいやが上にも発達し、現実的には高度の美意識による肉的なものを追ひ求める一方、歓楽極まつて哀愁生ずる譬《たと》へ通り、人々、省己嫌厭の不安から崇高な求道の志を反比例に募らせる。この二つの欲求の調和に応ずべく、仏教にもいろ/\の変貌《へんぼう》を
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