参する日々の出納《すいとう》帳もあまり身にしみては見なかつた。極々まれに、こわごわ娘達の様子を聞くことはあつた。しかし番頭はじめ店の者も誰も、あまり詳しくは話さなかつた。事実、娘達の消息は、店へあまり詳しく判らないのであつた。たゞ、達者でゐることだけは判つた。宗右衛門はその度に何かいま/\しいやうな気がした。が、またほつと安心もした。
宗右衛門が寺へ来てから直《じ》きに彼は一つの困難に突き当つた。納所部屋から庫裡《くり》へ続くところの一間の壁の壁画に、いつ誰の手に成つたとも知れぬ女菩薩《にょぼさつ》の画像があつた。或日《あるひ》秋の日暮れがたであつた。宗右衛門は、すつかりそれに見惚《みと》れて佇《たちどま》つてゐた。その女菩薩が妙に宗右衛門の性慾を刺戟《しげき》したのであつた。女菩薩の画像は等身大であつた。何者が斯《こ》うまで巧妙に描いたものか。そのふくよかな頬《ほお》、なよやかな鼻、しまり過ぎぬ細い唇。半開の眼が海の潮の一片のやうなうるみ[#「うるみ」に傍点]を籠《こ》めて長く引かれ、素直にそれに添つた薄墨の眉毛《まゆげ》の情深さ。それ等《ら》は丸味を帯びた広い額《ひたい》の白毫《びゃくごう》の光に反映せられ、反《かえ》つて艶冶《えんや》を増す為めか、或ひはそれ等の部分部分にことさら丹念に女人の情を潜ませてあるのか、兎《と》に角《かく》、彼は今まで如何《いか》なる名匠の美人画にも単なる艶冶や嬌態《きょうたい》を示したものに、これほど心を引かれたことはなかつた。清浄を湛《たた》へて艶冶ははじめてまことに生き、ます/\嬌色は深まるものであらうか――。
沈み切つた暮色のなかに、この女菩薩像が愈々《いよいよ》生きて宗右衛門に迫つた。丸い肩から流れる線の末端を留めて花弁を揃《そろ》へたやうな――それも自然に薄紅の肉色を思はせる指、なよやかな下半身に打ちなびく羅衣《らい》の襞《ひだ》の、そのひとつ/\の陰にも言ひ知れぬ濃情を潜めてゐるのであつた。宗右衛門のその時の性慾は、単なる肉体の劣情ばかりではなかつた。彼が曾《か》つて、殆《ほとん》ど感じたことのなかつた、求めても得られず、また求めようともしなかつた女性への思慕――彼は胸元をひきしぼられるやうな甘い悲哀にだん/\ひたつて行つた。彼は其処《そこ》へひざまづいた。生来、始めて感じた神秘的な恍惚《こうこつ》に彼は陥つてゐた。再び眼をひらいた時、彼の眼の前は闇一色であつた。彼は、そつとその壁に手をふれてみた。ひやりと――おそらくさうであつたらう、彼は、その異様な感触に手の先を振りながら、自分の部屋へ駆け込んだ。
(俺は何といふ罰あたりだ)
彼は炉の傍へうづくまつた。部屋は真暗であつた。かたく閉《とざ》した部屋の外には、ことりとも音がしない。炉の灰をかむつた火のかげろふが二つ三つ、遠い過去か未来の夢の中のロマンチックな灯のやうに、彼の想ひを引きいれるのであつた。
宗右衛門は五十余歳の年齢にしては、若い肉体を持つてゐたが、それは彼の頑強と豪気との抑圧的な一種の反感を対者に加へるにとゞまつて、誰も彼から淫蕩《いんとう》の感じを受ける者はなかつた。実際、彼には、生来さうした行跡は殆《ほとん》どないと言つてもよかつた。江戸の主家に居る時、ほんの小僧の時、一度、若者になつてから二三度、無理やりに朋輩《ほうばい》や先輩に誘はれて遊女屋へ足を入れたことはあつた。彼は其処《そこ》で、いくらかの性慾の好奇心を満足させたばかりで、気持ちに何の纏綿《てんめん》をも持てなかつた。むしろ、より多くみだり[#「みだり」に傍点]がましさに反感を重ねて行くやうになつて、ふつつり他からの誘惑にも乗らなくなつた。それから主家の小間使ひであつた大工の娘のお静といふ可愛い少女に暫《しば》らく人知れず懸想して居たことはあつた。が、武士の血筋のプライドがいつか彼を謹厳にして、その懸想をもしりぞけさせた。お静が貧しい大工の娘であつたからである。妻のお辻も、主家の娘といふ点が、いくらか彼のプライドを緩和しただけで、たゞの町家の平凡な娘を、便宜上、妻にしたに過ぎないといふ気持ちばかりで終始してゐた。では、彼は、あるか無きかの如き陰性なお辻一人に満足し切つて、彼の男盛りの何十年を過して来たか。否、彼の心に全然、女の影のさゝぬことはなかつたのであつた。
娘達の乳呑《ちのみ》時代に、半年ほど離れ家へ抱へたお光といふ乳母《うば》(今はその乳母の為めに、離れ家を聯想《れんそう》するのさへ嫌であるが)は二十五六で、或《ある》商家の出戻り娘であつた。あたりを明るくするほどの派手な美貌《びぼう》であつた。その上、気性は如何《いか》にも痴情で、婚家から出されたと頷《うなず》けるほど浮々してゐた。それから店の下婢《かひ》のなかから珍らしく可憐《かれん》
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