すと
「それがはっきり判れば、苦労なんかしやしないやね」それは初恋の男のようでもあり、また、この先、見つかって来る男かも知れないのだと、彼女は日常生活の場合の憂鬱な美しさを生地で出して云《い》った。
「そこへ行くと、堅気さんの女は羨《うらやま》しいねえ。親がきめてくれる、生涯ひとりの男を持って、何も迷わずに子供を儲《もう》けて、その子供の世話になって死んで行く」
 ここまで聴くと、若い芸妓たちは、姐《ねえ》さんの話もいいがあとが人をくさらしていけないと評するのであった。

 小そのが永年の辛苦で一通りの財産も出来、座敷の勤めも自由な選択が許されるようになった十年ほど前から、何となく健康で常識的な生活を望むようになった。芸者屋をしている表店と彼女の住っている裏の蔵附の座敷とは隔離してしまって、しもたや[#「しもたや」に傍点]風の出入口を別に露地から表通りへつけるように造作したのも、その現われの一つであるし、遠縁の子供を貰って、養女にして女学校へ通わせたのもその現われの一つである。彼女の稽古事が新時代的のものや知識的のものに移って行ったのも、或はまたその現われの一つと云えるかも知れない。この物語を書き記す作者のもとへは、下町のある知人の紹介で和歌を学びに来たのであるが、そのとき彼女はこういう意味のことを云った。
 芸者というものは、調法ナイフのようなもので、これと云って特別によく利《き》くこともいらないが、大概なことに間に合うものだけは持っていなければならない。どうかその程度に教えて頂きたい。この頃は自分の年|恰好《かっこう》から、自然上品向きのお客さんのお相手をすることが多くなったから。
 作者は一年ほどこの母ほども年上の老女の技能を試みたが、和歌は無い素質ではなかったが、むしろ俳句に適する性格を持っているのが判ったので、やがて女流俳人の某女に紹介した。老妓はそれまでの指導の礼だといって、出入りの職人を作者の家へ寄越して、中庭に下町風の小さな池と噴水を作ってくれた。
 彼女が自分の母屋《おもや》を和洋折衷風に改築して、電化装置にしたのは、彼女が職業先の料亭のそれを見て来て、負けず嫌いからの思い立ちに違いないが、設備して見て、彼女はこの文明の利器が現す働きには、健康的で神秘なものを感ずるのだった。
 水を口から注ぎ込むとたちまち湯になって栓口から出るギザーや、煙管《きせる》の先で圧《お》すと、すぐ種火が点じて煙草に燃えつく電気|莨盆《たばこぼん》や、それらを使いながら、彼女の心は新鮮に慄《ふる》えるのだった。
「まるで生きものだね、ふーム、物事は万事こういかなくっちゃ……」
 その感じから想像に生れて来る、端的で速力的な世界は、彼女に自分のして来た生涯を顧みさせた。
「あたしたちのして来たことは、まるで行燈《あんどん》をつけては消し、消してはつけるようなまどろい生涯だった」
 彼女はメートルの費用の嵩《かさ》むのに少なからず辟易《へきえき》しながら、電気装置をいじるのを楽しみに、しばらくは毎朝こどものように早起した。
 電気の仕掛けはよく損じた。近所の蒔田《まきた》という電気器具商の主人が来て修繕した。彼女はその修繕するところに附纏《つきまと》って、珍らしそうに見ているうちに、彼女にいくらかの電気の知識が摂《と》り入れられた。
「陰の電気と陽の電気が合体すると、そこにいろいろの働きを起して来る。ふーむ、こりゃ人間の相性とそっくりだねえ」
 彼女の文化に対する驚異は一層深くなった。
 女だけの家では男手の欲しい出来事がしばしばあった。それで、この方面の支弁も兼ねて蒔田が出入していたが、あるとき、蒔田は一人の青年を伴って来て、これから電気の方のことはこの男にやらせると云った。名前は柚木《ゆき》といった。快活で事もなげな青年で、家の中を見廻しながら「芸者屋にしちゃあ、三味線がないなあ」などと云った。度々来ているうち、その事もなげな様子と、それから人の気先を[#「気先を」は底本では「気先は」]撥《は》ね返す颯爽《さっそう》とした若い気分が、いつの間にか老妓の手頃な言葉|仇《がたき》となった。
「柚木君の仕事はチャチだね。一週間と保《も》った試しはないぜ」彼女はこんな言葉を使うようになった。
「そりゃそうさ、こんなつまらない仕事は。パッションが起らないからねえ」
「パッションって何だい」
「パッションかい。ははは、そうさなあ、君たちの社会の言葉でいうなら、うん、そうだ、いろ気が起らないということだ」
 ふと、老妓は自分の生涯に憐《あわれ》みの心が起った。パッションとやらが起らずに、ほとんど生涯勤めて来た座敷の数々、相手の数々が思い泛《うか》べられた。
「ふむ。そうかい。じゃ、君、どういう仕事ならいろ気が起るんだい」
 青年は発明をして、専売
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