失笑した。
「ずいぶん失礼ね」
「どうせあなたは偉いのよ」みち子は怒って立上った。
「まあ、せいぜい運動でもして、おっかさん位な体格になるんだね」
 みち子はそれ以後何故とも知らず、しきりに柚木に憎《にくし》みを持った。

 半年ほどの間、柚木の幸福感は続いた。しかし、それから先、彼は何となくぼんやりして来た。目的の発明が空想されているうちは、確に素晴らしく思ったが、実地に調べたり、研究する段になると、自分と同種の考案はすでにいくつも特許されていてたとえ自分の工夫の方がずっと進んでいるにしても、既許のものとの牴触《ていしょく》を避けるため、かなり模様を変えねばならなくなった。その上こういう発明器が果して社会に需要されるものやらどうかも疑われて来た。実際専門家から見ればいいものなのだが、一向社会に行われない結構な発明があるかと思えば、ちょっとした思付きのもので、非常に当ることもある。発明にはスペキュレーションを伴うということも、柚木は兼ね兼ね承知していることではあったが、その運びがこれほど思いどおり素直に行かないものだとは、実際にやり出してはじめて痛感するのだった。
 しかし、それよりも柚木にこの生活への熱意を失わしめた原因は、自分自身の気持ちに在った。前に人に使われて働いていた時分は、生活の心配を離れて、専心に工夫に没頭したら、さぞ快いだろうという、その憧憬から日々の雑役も忍べていたのだがその通りに朝夕を送れることになってみると、単調で苦渋なものだった。ときどきあまり静で、その上全く誰にも相談せず、自分一人だけの考を突き進めている状態は、何だか見当違いなことをしているため、とんでもない方向へ外《そ》れていて、社会から自分一人が取り残されたのではないかという脅えさえ屡々《しばしば》起った。
 金儲けということについても疑問が起った。この頃のように暮しに心配がなくなりほんの気晴らしに外へ出るにしても、映画を見て、酒場へ寄って、微酔を帯びて、円タクに乗って帰るぐらいのことで充分すむ。その上その位な費用なら、そう云えば老妓は快くくれた。そしてそれだけで自分の慰楽は充分満足だった。柚木は二三度職業仲間に誘われて、女道楽をしたこともあるが、売もの、買いもの以上に求める気は起らず、それより、早く気儘《きまま》の出来る自分の家へ帰って、のびのびと自分の好みの床に寝たい気がしきりに起った。彼は遊びに行っても外泊は一度もしなかった。彼は寝具だけは身分不相応のものを作っていて、羽根蒲団など、自分で鳥屋から羽根を買って来て器用に拵《こしら》えていた。
 いくら探してみてもこれ以上の慾が自分に起りそうもない、妙に中和されてしまった自分を発見して柚木は心寒くなった。
 これは、自分等の年頃の青年にしては変態になったのではないかしらんとも考えた。
 それに引きかえ、あの老妓は何という女だろう。憂鬱な顔をしながら、根に判らない逞《たく》ましいものがあって、稽古ごと一つだって、次から次へと、未知のものを貪《むさぼ》り食って行こうとしている。常に満足と不満が交《かわ》る交る彼女を押し進めている。
 小そのがまた見廻りに来たときに、柚木はこんなことから訊《き》く話を持ち出した。
「フランスレビュウの大立者の女優で、ミスタンゲットというのがあるがね」
「ああそんなら知ってるよ。レコードで……あの節廻しはたいしたもんだね」
「あのお婆さんは体中の皺《しわ》を足の裏へ、括《くく》って溜めているという評判だが、あんたなんかまだその必要はなさそうだなあ」
 老妓の眼はぎろりと光ったが、すぐ微笑して
「あたしかい、さあ、もうだいぶ年越の豆の数も殖《ふ》えたから、前のようには行くまいが、まあ試しに」といって、老妓は左の腕の袖口を捲って柚木の前に突き出した。
「あんたがだね。ここの腕の皮を親指と人差指で力一ぱい抓《つね》って圧《おさ》えててご覧」
 柚木はいう通りにしてみた。柚木にそうさせて置いてから、老妓はその反対側の腕の皮膚を自分の右の二本の指で抓って引くと、柚木の指に挾《はさ》まっていた皮膚はじいわり滑り抜けて、もとの腕の形に納まるのである。もう一度柚木は力を籠《こ》めて試してみたが、老妓にひかれると滑り去って抓り止めていられなかった。鰻《うなぎ》の腹のような靱《つよ》い滑かさと、羊皮紙のような神秘な白い色とが、柚木の感覚にいつまでも残った。
「気持ちの悪い……。だが驚いたなあ」
 老妓は腕に指痕の血の気がさしたのを、縮緬《ちりめん》の襦袢《じゅばん》の袖で擦《こす》り散らしてから、腕を納めていった。
「小さいときから、打ったり叩《たた》かれたりして踊りで鍛えられたお蔭だよ」
 だが、彼女はその幼年時代の苦労を思い起して、暗澹《あんたん》とした顔つきになった。
「おまえさん
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