り、室子の性質なりで、うまくは行くまいとの明《めい》だけは両親に在った。蓑吉を仕込んで小規模に家業を継がせ、望み手もあらば室子は嫁に出す考えである。見合いの口が二つ三つあった。
 母親がわが事のように意気込んで、見合いの日室子を美容術師へ連れて行き、特別|誂《あつら》えの着物を着せた。普通の行き丈けや身幅ものでも、この雄大な娘には紙細工の着物のように見えた。出来上った娘の姿を見て「この娘には、まるで女の嬌態《しな》が逆についている」と母親が、がっかりした。けれども、美容師の蔦谷女史は、心から感嘆の声を放った。そして、是非、写真を撮らして欲しいと望んだ。だが、室子がそれを断った。
 見合いは順当に運んだ。附添って行った母親の眼にも落度は無いように思われた。
 ところが翌日仲介者が断りに来た。
「何分にも、お立派過ぎると、あちらは申すんで――」
「立派すぎるなんて、そんな断りようがあるか」
 父親は巻煙草を灰皿にねじ込んで怒った。
 室子はもう一度見合いをさせられた。それは口実なしに先方が返事を遷延《せんえん》してしまった。
 室子はそういう場合、得体《えたい》の知れぬ屈辱感で憂鬱になる。そして、自分に何か余計なものかもしくは足りないもののありそうな遺憾が間歇泉《かんけつせん》のように胸に吹き上がる。けれども、それは直接男性というものに対する抗議にはならなかった。彼女は男性というものには、コーチの松浦を通して対している。
 この洋行帰りの青年紳士は、室子の家の遠縁に当り、嘗《かつ》て彼女をスカールへ導き、彼女に水上選手権を得させ、スポーツの醍醐味《だいごみ》も水の上の法悦も、共に味わせて呉れた男だった。
 親切で厳しく、大事な勝負には一しょに嘆いたり悦んだりして呉れる。艇を並べて漕ぎ進む。すると松浦は微笑の唇に皮肉なくびれ[#「くびれ」に傍点]を入れ乍ら漕ぎ越す。擬敵に対する軽い憎しみはやがて力強い情熱を唆《そそ》って漕ぎ勝とうと彼女を一心にさせる。また松浦が漕ぎ越す。一進一退のピッチは軈《やが》て矢を射るよりも速くなっても、自分には同じ水の上に松浦の艇と自分の艇とが一二メートルずつ競り合っているに過ぎない感じだ。精神の集注は、彼女を迫った意識の世界へ追い込む。両岸、橋、よその船等、舞台の空幕のように注意の外に持ち去られる。ひょっとして競漕の昂揚点に達すると、颱風の中心の無風帯とも見らるべきところの意識へ這入る。ひとの漕ぐ艇、わが漕艇と意識の区別は全く消え失せ、ただ一つのものが漕いでいる。無限の空間にたった一つの青春がすいすいと漕いでいる。いつの頃から漕ぎ出したか、いつの頃には漕ぎ終るか、それも知らない。ただ漕いでいる。石油色に光る水上に、漕いでいる。
 ふと投網《とあみ》の音に気が逸《そ》れて、意識は普通の世界に戻る。彼女はほっとして松浦を見る。松浦も健康な陶酔から醒めて、力の抜けた微笑を彼女に振向けている。
 艇の惰力で、青柳の影の濃い千住大橋の袂《たもと》へ近づく。彼女は松浦とそこから岸へ上って、鮒《ふな》の雀焼を焼く店でお茶を貰って、雀焼を食べたことを覚えている。
 松浦はなつかしい。だが、それは水の上でだけである。陸の上で会う松浦は、単にS会社の平凡で勤勉な妻子持ちの社員だけである。水の上であの男に感じる匂いや、神秘は何処《どこ》へ消えるか、彼は二つ三つ水上の話を概念的に話したあとは、額に苦労波を寄せて、忙しい日常生活の無味を語る。彼女に何か、男というものの気の毒さを感じさせる。その同情感は、一般勤労者である男性にも通じるものであろう。

 室子は、隅田川を横切って河流の速い向島側に近く艇を運んで、桜餅を買って戻る蓑吉を待っていた。
 水飴《みずあめ》色のうららかな春の日の中に両岸の桜は、貝殻細工のように、公園の両側に掻き付いて、漂白の白さで咲いている。今戸橋の橋梁の下を通して「隅田川十大橋」中の二つ三つが下流に臙脂《えんじ》色に霞んで見える。鐘が鳴ったが、その浅草寺の五重塔は、今戸側北岸の桜や家並に隠れて彼女の水上の位置からは見えない。小旗を立て連ねた松屋百貨店の屋上運動場の一角だけが望まれる。崖普請《がけぶしん》をしている待乳山聖天から、土運び機械の断続定まらない鎖の音が水を渡って来る。
 室子は茶の芽生えに萌黄《もえぎ》色になりかけの堤を見乍ら「いまにあの小さい蓑吉が、桜餅の籠を提げて帰って来る――」と水の上で考えている。小さい足はよろめいて、二三度可愛ゆい下駄の音を立てるだろう。あまり往来の多くないこの渡船に乗客は、ひょっとしたら蓑吉一人かも知れない。蓑吉は一人使いの手柄を早く姉に誇ろうと気負い込み、一心に顔を緊張させ、眼は寮の方ばかり見詰めるだろう。そして船頭に渡賃を云われて小銭を船頭の掌に渡すあの子は、もう一度船頭の掌の中の小銭を覗き込むだろう。あの子は多少ケチな性分だから――丁度その頃を見計らって、自分が知らん顔をして、艇を渡船と平行に、すいすい持って行く。それを発見したときの蓑吉の愕《おどろ》きと悦びはどんなだろう。あの「小さき者」は何というだろう。
 こんな子供っぽいことに、最大の情熱を持つ今の自分は、普通の女の情緒を、スポーツや勝負の激しさで擦り切ってしまったのかしらん。
 だが、何にしても子供は可愛ゆい。男は兎《と》に角《かく》、子供だけは持ち度いものだ――室子は、流れの鴎の翼と同じ律に櫂《かい》をフェーザーしては蓑吉を待っていた。

 堤を見詰めている室子の狭めた視野にも、一|艘《そう》のスカールが不自然な角度で自分の艇に近付いて来たことを感じた。彼女は「また源五郎かしらん」と思った。金魚や鮒の腹に食いつく源五郎虫のように、彼女達は水上で不良の男達の艇にねばられることがあった。彼女たち娘仲間の三四人は、これに「源五郎」と符牒《ふちょう》をつけていた。
 彼女がいま近づいて来た相手をくわしく観察する暇もない程素早く近寄って来たスカールの上の青年の気配が、彼女に異常に伝わった。その大きな瞳といわず、胸、肩といわず、それは電気性のものとなって、びりびり彼女を取り込め、射竦《いすく》ますような雰囲気を放った。あの競漕の最中に、しばしば襲って来るあの辛いとも楽しいともいいようのない極限感が、たちまち彼女の心身を占めて、彼女を痺《しび》らす。彼女に生れて始めてこんな部分もあったかと思われる別な心臓の蓋《ふた》が開けられて、恥かしいとも生々しいともいいようのない不安な感じと一緒に其処《そこ》を相手から覗き込まれた。
 彼女はうろたえた。咽喉《のど》だけで「あっ」といった。オールもまちまちに河下の方へ艇頭を向けると、下げ潮に乗って、逃げ出した。するとその艇も逃さず追って来た。ふだんから室子は結局のところは男に敵わないと思っていたが、この青年は抜群の腕と見えて、彼女の左舷の方に漕ぎ出ると、オールへ水の引掛け方も従容《しょうよう》と、室子の艇の、左舷の四分の一の辺へ、艇頭を定めると、ほとんど半メートルの差もなく漕ぎ連れて来る。その漕ぎ連れ方には愛の力が潜んでいて、それを少しずついたわりに変え、女を脅かさぬように気をつけながら大ように力を消費して行くかのようである。
 青年の人柄も人柄なら、その技倆《ぎりょう》にも女の魂を底から揺り動かす魅力があった。室子がいくら焦《あせ》って漕いでも、相手の艇頭はぴたと同じところにある。恥かしさと嬉しさに、肉体は溶けて行くようだった。
 それだけ彼女には異常な圧迫感が加わる。今まで、自由で、独自で自然であった自分が手もなく擒《とりこ》にされるのだ。添えものにされ、食われ、没入されてしまうのだ。
 何と、うしろからバックされて行く自分の姿のみじめなことよ。今まで誇っていた技倆の覚束《おぼつか》ないことよ。自分の漕いで行く姿が、だんだん碕形になる事が、はっきり自分に意識される。
 二つの橋が、頭の上を夢の虹のように過ぎる。室子は疲れにへとへとになり、気が遠くなりながら、身も心も少女のようになって、後からの強い力に追われて行く――この追い方は只事《ただごと》では無い。愛の手の差し延べ、結婚の申込みでは無かろうか。カンとカンで動く水の上の作法として、このようなことも有り得るように思う。
 眼が眩《くら》んで来て星のようなものが左右へ散る。心臓は破れそうだ。泣いて取縋《とりすが》って哀訴したい気持ちが一ぱいだ。だが、青年の艇は大ような微笑そのものの静けさで、ぴたりぴたりついて来て離れない。
 せめて吾妻《あずま》橋まで――今くず折れるのはまだ恥かしく、口惜しい――だが室子はその時すでに気を失いつつあった。

 姉ちゃん、姉ちゃんと蓑吉の呼ぶ声がしたかと思った。室子が気がついてみると、蓑吉はいなくて、自分を抱き起しているのは後の艇にいた青年であった。



底本:「岡本かの子全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「老妓抄」中央公論社
   1939(昭和14)年3月18日発行
初出:「婦人公論」
   1939(昭和14)年1月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年2月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング