と同じ炬燵にいた室子は、この光景を見て、何とも仕様のない、人間の不如意の思いが胸に浸み入った。
 だが暫くすると蓑吉は、また今度は、ちょっとお咲の顔を見ては、やっぱり、菓子袋へ手を出していた。
 そうかと云って室子の見る蓑吉は、手の中の珠のように可愛がる室子の両親に特になつくという訳でもなかった。何か一人で工夫して、一人で梯子《はしご》段の下で、遊んでいるような子供だった。

 寮では、今朝、子供の食べるような菓子は切らしていた。だが蓑吉は一わたり玩具をいじり廻して仕舞うと鼻声になり
「何か呉れない。お菓子」
 と立上って来た。
 室子は仕方なく蓑吉を膝に凭《もた》せながら、午前九時頃の明るさを見せて来た隅田川の河づらを覗いた。
「蓑ちゃん、長命寺のさくら餅《もち》屋知ってる」
「ああ知ってるよ。向う河岸《がし》の公園出てすぐだろ」
「じゃ、一人で白鬚《しらひげ》の渡し渡って買ってらっしゃい。行ける?」
 蓑吉は、この冒険旅行に異常な情熱を沸かしたらしい。いきなり室子の膝から離れると
「行けなくってえ――あんなとこ」
 捌《さば》けた下町っ子らしい気魄を見せた。
 実母にさえ、あんな傲慢なこの子に案外弱気なところがある。室子はそこを一寸突いても見たかった。何か、悄然《しょうぜん》としたあわれ[#「あわれ」に傍点]さをこの子から感じたかった。
 だが、女中に銀貨と小銭を貰って出て行く蓑吉の後姿を見送り乍ら、室子は急に不憫になった。だが口では冗談らしく
「蓑ちゃん。船から落っこっても、大丈夫ね、犬掻き位は出来るわね」
 蓑吉はもう、行手に心を蒐《あつ》めていた。で
「なんだい、河じゅうみんな泳げら」
 爺やの直す下駄《げた》を穿《は》いて出かけて行く蓑吉のあとから、爺やはあははと笑った。
 室子は手早く漕艇用のスポーツ・シャツに着換えた。
 逞ましい四肢が、直接に外気に触れると、彼女の世界が変った。それは新しい世界のようでもあり、懐《なつか》しい故郷のようでもあった。肉体と自然の間には、人間の何物も介在しなかった。
 室子は、寮の脇の藤棚を天井にした細い引き堀へと苔の石段を下った。室子はスカールの覆《おお》い布を除《と》って、レールの端を頭で柔かく受けとめた。両手でリガーを支えてバランスに気を配りながら、巧《たくみ》に艇身を廻転させつつ渚へ卸した。そのまま川に通ずる石垣
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