は湿り気をふるって起上った。僅かに残っている白い鬢髪からも、長く垂れた白い眉尖からも雫が落ちた。雨風に曝され見すぼらしくなった旅の翁をどこでも泊めようとしなかったのだ。翁は煩わしく雫を払いながら朝餉《あさがれい》を少し食べた。持ち亙って来た行糧ももはやほとんど無くなっていた。翁は朝餉を食べ終ると冷えた身体を撫でさすりいささかの暖味に心を引立たして貰って、きょうの旅路の踏出しにかかった。
 鶏はおちこちで鳴き盛って来たが、行く手の垂れ雲は晴れようともしなかった。捲き返す浪打際のいさごを踏んで翁はとぼとぼと辿《たど》って行った。海上の霧のうすれの明るみに松の生え並ぶ白州の浜が覗かれた。翁は島かとも見るうちにまた霧に隠れた。
 その日の夕近く、翁は垂れ雲を左手にした、垂れ雲の幕の面を平行する行路の上を辿るようになった。落日の華やかさもなく、けさがたからの風は蕭々《しょうしょう》と一日じゅう吹き続けたまま暮れて行くのであるが、翁には心なしか、左手の垂れ雲の幕の裾が一二尺|掠《かす》り除《のぞか》れて行くように思われた。あたりが闇に入る前に、翁はその幕の掠り除れた横さまの隙より山の麓らしい大よう
前へ 次へ
全90ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング