れたにいしぼり[#「にいしぼり」に傍点]の高い匂いが、自分に絶望しかけて凡欲の心に還りつつある翁の眼や鼻から餓えた腸にかぐわしく染みた。
 翁はから火を見ながらかさかさ乾いて亀縮《かじか》む掌を摩り合わせて「娘が子というものは」と考えた。
「手頃の育て方をして置くものだ」
 と、これは口に出していった。
「あの娘は、あまり偉くなりすぎたよ」
 口惜しさと悔いがぎざぎざと胸を噛んだ。
「あれじゃ、まるで取り付くしまもありはしない」
 ふと、翁にふる郷の西国の山と山神が懐しまれた。あれ等のものにはつんもりとした、ちょうど愛の掌で撫で廻される手頃なものがある。それ等の山には背があれば必ず山隈や谷があった。そのようにこどもの山神たちにも秀でた性格の傍、叱りたしなめはするがそれによってまた憐れみがかかり懐き寄せられもする欠点なるものがあるのだったが。
 この山の娘にはそれが無い。美しく偉いだけで親さえ親しめる隙が無さそうである。
「この娘を東国へ旅人の手に托《かず》けて送ったときの気持に戻って、いっそ、この娘を思い捨てるか。それにしてはこれだけになったものを、あまりに惜しい気もする。第一、山神の眷属の中からこれ程の女神を出したことは、山の祖神としていかなる気持の犠牲を払っても光栄とすべきではないか」
 そう思うまた下から、親ごころの無条件な気持でもって「娘よ」と呼びかけても、かの女の雪膚の如き玲瓏《れいろう》な性情に於て対象に立ち完全そのものの張り切り方で立ち向われて来るときの、こなたの恥さえ覚えるばかりの手持無沙汰を想像するとき、やはり到底、親子としては交際《つきあ》い兼ねる女なのではあるまいかと、懸念がすぐ起って来るのでもあった。
 とつおいつ思いあぐねるうち、いよいよ無力の孩児《がいじ》としての感じを自分に深めて来た老翁は、いまは何もかもかなぐり捨て、ひたすら娘に縋《すが》り付き度くなった。それは福慈神に向って娘としてよりも母らしいものへの寄する情に近かった。偉れて立優っているこの女神に対しこの流れの方向の感情に心を任せるとき、却って気持は自然に近いことを老翁は発見した。
 女神が捧げものを徹して持ち帰る姿が望まれた。
 翁は堪られなくなって声をかけた。
「娘よ。福慈神よ」
 それは始めから哀訴の声音だった。
 女神の片眉が潜められたが声は美しく徹っていた。
「あら、まだ、そこにいらっしゃいますの。お寒いのに、なぜ、おとり申上げた村里の宿へお出でになりませんの」
 翁は頑是《がんぜ》ない子供が、てれながら駄々を捏ねるように、掌に拳を突き当てつつ俯向《うつむ》き勝ちにいった。
「寂しいんだよ」
「では、どうして差上げたらよろしいのでございましょう」
「どんな端っこでもいい、おまえの家へ泊めとくれよ」
 翁の声は小さかったが強訴の響は籠っていた。「おまえの居ると同じ屋の棟の下にいれば気が済むのだから、決して祭りの邪魔はしないのだから」
「それが、おさせ申上られないことは、お出でにすぐ申上げたではございませんか。無理を仰《おっ》しゃっては困りますわ」
 娘の声は美しく徹ったまま、山が頂より麓へ土を揺り据えたように、どっしりとした重味が添わって来た。その気勢に圧せられた翁は、却ってあらがう気持を二つ弾のような言葉で、あと先立て続けに女神へ向けて放った。
「情のこわい女だぞ」「何をまだ、この上、親を断っても修業の祭をしようというのだ。いやさ、これほど出来上った山やおまえに何の力や性格を増し加えようというのだ、慾張り」
 女神は、しばらく黙って父の翁のいう言葉の意味の在所を突き止めていたが、やがて溜息をついたのち、静にいった。
「結局、おとうさまは、山の祖神の癖にこの福慈神だけはお知りになっていないことに帰着いたしますわね。よろしゅうございます、暁の祭までにはまだ間の時刻もございます。お話いたしましょう」
 といって、ちょっと美しく目を瞑り考えを纏《まと》めているようだったが、こう語り出した。
「おとうさま、この福慈岳は火を背骨に岩を肋骨《ろっこつ》に、砂を肉に附けていて少しの間も苦悩と美しさと成長の働をば休めない大修業底の山なのでございますわ。見損じて下さいますな」
 雨気が除かれたかして星が中天に燦《きら》めき出した。天空より以下巨大な三角形の影をもちて空間を阻み星が燦めきあえぬ部分こそ夜眠の福慈岳の姿である。頂の煙のみ覚めてその舌尖は淡く星の数十粒を舐《ねぶ》っている。

「わたくしが」
 と福慈の女神は静に言葉をついだ。女神の顔は氷花のように燦めき、自然のみが持つ救いのない非情と、奥底知れない泰らかさとが、女神の身体から狭霧のようにくゆり出す。
 岳神が変貌して、そしてこういうふうに言い出すとき、その「わたくし」は、最早岳神みずからの
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