た窮屈な形を強いて保ちながら愕き以上のものに弄《なぶ》られている。翁に僅に残っている頭の働きはこういうことを考えている。これが同じ地上に在って眺めらるものの姿であるのか。この仰ぎ見る天空の頂は麓の土とどういう関係に在るのか。麓はよし地上の山にしろ、頂はそれに何の縁もない雲に代って空から湧くまた一つの気体の別山なのではあるまいか。南の海の※[#「虫+亢」、279−10]螺《ごうら》が吐くという蜃気が描き出す幻山のたぐいではあるまいか。幻山を証拠立てるよう塩尻がたの尖から何やら煙のようなものの燻《くすぶ》り出るのが見えるようでもある。
 薄れ明るむ雲の垂れ幕とたそがれる宵闇の力とあらがう気象の摩擦から福慈岳の巨体は、巨体さながらに雲の帳の表にうっすり浮出で、または帳の奥に潜って見えたりする。何という大きな乾坤《けんこん》の動きであろう。しかも音もなく。呆れた夢に痺《しび》れさせられかけていた翁の心は一種の怯えを感ずるとぶるりと身慄いをした。翁の頭の働きはやや現実に蘇《よみがえ》って来る。
 翁は西国に於て、山ちょう山により自然と人間のことはほとんど学び尽し、性情にもあらゆる豊さを加えたつもりでいた。また永い歳月かかって体験から築き上げた考えと覚悟はもはや何物を持って来ても壊せず揺ぎないものと思っていた。ところがいま、模索した程度に過ぎないものの、福慈岳の存在に出遇ってみると、それ等のものは一時にけし飛び、自分なるものを穴に横匍う蘆間の蟹のように畸形にも卑小に、また、経めぐって来た永い歳月を元へ投げ戻されてただ無力の一|孩児《がいじ》とにしか感じられない。
「これは何ということだ。上には上があるものだ」
 翁は人の世の言葉ではじめてこういった。物の絶大の量と絶大の積は説明なくしてそれが一つの力強い思想として影響するものであることを翁は悟らせられた。
「負けたよ」
 翁はこうもいった。
 山と山神とは性格も容貌も二つに分つべからざる関係を持つことは翁が西国の諸山に間配って諸山の山神に仕立てた自分の子供たちによって知れるところのものである。この山の岳神となったわが娘福慈神の性格が果してこの山の如くならば、自分がこの娘に対して抱く考えも気持もまるで見当外れである。およそ桁《けた》が違っていよう。そしてまた西国の諸山と諸山に間配った自分の子どもたちの性格はおよそ山の祖神自身の性格の中に在るものであり、たとえ無かったものにしろそれは新に嚥《の》み入れて自分の性格の複雑さを増し得た程度の積量のものであった。それゆえ自分はかれ等を分身と思い做され、総ての上に臨んで自分は山の祖神であったのだが、いまこの山の娘の神に向ってはまるでそういうこともそうすることも覚束《おぼつか》なくも思われる。
「この山は嚥み切れない。もしもそうしたなら、自分の性格の腹の皮の方が裂けよう」
 翁はいまにもそれを恐れるように大事そうに螺の如き自分の腹を撫でた。
 夕風が一流れ亙った。新しい稲の香がする。祭の神楽の音は今|将《まさ》に劉喨《りゅうりょう》と闌《たけなわ》である。
 翁が呆然眺め上げる福慈岳の山影は天地の闇を自分に一ぱいに吸込んで、天地大に山影は成り切った。そう見られる黝《くろず》み方で山は天地を一体の夜色に均《なら》された。打縁流《うちよする》、駿河能国《するがのくに》の暮景はかくも雄大であった。

 神の道しるべの庭のかがり火は精気を増して燃えさかっている。
 山の祖神の翁は、泣いていいか笑っていいか判らない気持にされながら、かがり火越しに幄舎《あくしゃ》の方を観る。
 わが子でありながら超越の距《へだた》りが感じられる福慈の神は、白の祭装で、※[#「木+若」、第3水準1−85−81]机《しもとづくえ》に百取《ももとり》の机代《つくえしろ》を載せたものを捧げ、運び行くのが見える。
 長なす黒髪を項《うなじ》の中から分けて豊かに垂れ下げ、輪廓の正しい横顔は、無限なるものを想うのみ、邪《よこしま》なる想いなしといい放った皎潔《きょうけつ》な表情を保ちながら、しら雲の岫《くき》を出づる徐《おもむろ》なる静けさで横に移って行く。清らかな斎《いつき》の衣は、鶴の羽づくろいしながら泉を渡るに似て爽かにも厳《おごそ》かである。
 蛍光のような幽美な光りが女神の身体から照り放たれ、その光りの輪廓は女神の身体が進めば闇に取り残され、取残されては急いで、進む女神の身体に追い戻る。
 常陸《ひたち》の国の天羽槌雄神が作った倭文布《しずり》の帯だけが、ちらりと女神の腰に艶なる人界の色を彩《あやど》る。
 翁はわが子ながら神々しくも美しいと見て取るうち、女神の姿は過ぎた。
 娘の神が捧げて過ぎた机代のものの中で、平手《ひらて》に盛った宇流志禰《うるしね》の白い色、本陀理《ほだり》に入
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