めた。血潮が迸る。彼は頭を腑中に抉《こ》じていたが、すぐ包もののような塊を銜《くわ》え出した。顔中のみか鬚髪まで血みどろになって恐ろしく異様な生ものに見えたと銜えた包もののような塊からも繋る腑の紐からも黒いほどの獣の血が滴った。彼はそうしながら、しょんぼりとして女の前に立つ。これはなんのつもりだろう。すると、不思議に、女は顔蒼ざめさせ体は慄えながら一種の酔心地とならざるを得なかった。生れて始めて力というものが身の中に育まれるのを感じた。
だが女はこの気持を通しての、酔えるままにこの男と融け合ったならどういうところへ行くであろうと危く思う。
女は、そ知らぬ顔をして富士を見上げた。碧い空をうす紫に抽き上げている山の峯の上に相変らず鳥が渡っている。奥深くも静な秋の大山。
女は、所詮、どっちかからいい出さねばならない羽目が近付いているのを悟った。母親も気付いて相手の身分を図《はか》り近頃はぐずぐずいう。しかしこの情熱を生のままでは、たとえこのまま二人は結ばれたにしろ、のちのあくどさ[#「あくどさ」に傍点]が思い遺られる。
その日はやはり「この大根、嫁かずであれ、――今に」といって駆去った男が、その翌日、何にも獣は持たずに水のほとりに来た。女を見ると、矢庭に弓矢を女に向けて張った。男はこの頃の興奮と思い悩みに、いたく痩せ衰え、逞しい胸で息せき切っている。かくしてもまだ口ではいい出せず、弓矢をもって代弁させなければならない、荒い男の高ぶった憶しごころを女ははじめて憐れとみた。
女は、手で止め、ふと思い付き
「朝な朝なこの水に湧く、湧く玉の数を、数え尽しなさったら」
寂《さび》しく笑いながらいった。男は弓矢をそこに抛《ほう》り出し、ぐずぐずと水のほとりに坐した。
富士が生ける証拠に、その鼓動、脈搏を形に於て示すものはたくさんあるが、この湧玉の水もその一つであった。朝日がひむがしの海より出で、山の小額を薔薇色に染めかけるとき、この水の底から湧く泡の玉は特に数が多い。夜中に籠れる歇気を吐くのであろうか、夜中に凝る乳を粒立たすのであろうか、とにかく、この湧玉をみて、そして峯を仰ぐとき、確に山の眼覚めを思わせる。泡の玉は暗い水底より早昧そのものの色である浅黄色の中に、粒白の玉として生れ出で、途中真珠の色に染め做されつつ浮き泡となり水面に踊って散り失す。あなやの間ではあるが
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