い松明を取落し「あらっ!」と叫ばざるを得なかった。
 この若い男は、科野《しなの》国の獣神であって、福慈の女神により人間に化せしめられつつあるうち病気をしてしまったのでこの洞窟内で療養せしめられているのだといった。
 男の吸う乳房は、やはり岩瘤の一つで天井から垂れ下ったものであるが、尖には乳首の形もあった。これに伝わって滴る雫は、霊晶の石を溶し来て白濁し、人間の母が胸から湧かすところの乳の雫そのままであった。
 若い獣神はいう「この乳を、あの方は、生に対しても根が尽き果て、さればといって死へも急げない、生けるものに取っていちばん遣り切れないときに飲めと仰《おっ》しゃるんです。そのときがいちばん利くと。でも、そういう場合に飲もうとする努力は苦しいものですね」
 若い獣神はしきりに咳き込んだ。水無瀬女は背を撫でて介抱してやった。
 燈火のかすかな灯かげで女は獣神をよく見た。眼は落ち窪み 頬は痩《こ》け削《そ》げているが、やさしいたちの男らしかった。獣神にもこんな男がいるのか。女は眼を瞠った。ただ顔立ちに似気なく厚肉の唇は生《なま》の情慾に燃え血を塗ったようだった。男は荒い毛の獣の皮を着ていた。その衣の裾が岩床に敷くまわりに一ぱい痰《たん》が吐き捨ててあった。その痰の斑には濃い緑色のところと、黄緑色のところと、粘り白いところとある。淡く白いのは唾らしく無数の泡を浮べていた。眉をひそめて、それを眺めていると見て、男はそれを指しながらいった。
「こいつ等が、咽喉にうにょうにょして停滞しているときは、全く無作法な獣たちですね。私はそれが邪魔だから吐き出す。だがその度びに私から獣としてのいのちは吐き出されて行き、そのあとに果して人間のいのちが私に盛り上って来るか判りゃしません。いくらあの方が神仙の乳を飲まして下すったって……」
 いうことがどういうふうに女に響くか窃視《ぬすみみ》したのち、
「ねえ、お嬢さん。それで私はこの憎らしい、私を苦しめる痰を、吐き出すときに、一々、舌の上に載せて味ってやるんですよ。獣のいのちの名残りにしてそれには淡く塩辛いのもあり、いくらか甘くて――」
 といいかけたとき、女は急いで袖を自分の鼻口に当て手を差し出して止めた。
「もういいもういい。話は判っててよ」
 女は、この類《たぐ》いで、この若き獣神が生きとし生けるものの醜悪の底の味いを愛惜し、嘗め潜っ
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