もないところから地平は隆起し、麓《ふもと》から中腹にさしかかり、ついに聳《そび》え立つ峯巒《ほうらん》となる。遠方から翁の指尖はこつ[#「こつ」に傍点]に嵌《はま》ったその飛躍の線に沿うて撫で移って行くと音楽のような楽しいリズムを指の腹に感ずる。地の高まりというものは何と心を昂揚さすものであろう。人を悠久に飽かしめない感動点として山は天地間に造られているのであろう。
火の端《はた》で翁は、つれづれであった。翁は腕を動かして自分の肉体の凸所を撫でまわす。肩尖、膝頭、臀部、あたま――翁の眼中、一々、その凸所の形に似通う山の姿が触覚より視覚へ通じ影像となって浮んで来た。
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山処《やまと》の
ひと本すゝぎ
朝雨《あささめ》の
狭霧《さぎり》に将起《たゝん》ぞ
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翁は身体を撫でながら愛に絶えないような声調で、微吟した。
山又山の峯の重なりを望むときの翁は、何となく焦慮を感じた。対象するもののあまりに豊量なのに惑喜させられたからだった。翁は掌を裏返しに脇腹を焦《じ》れったそうに掻いた。
峯々に雲がかかっているときは、翁は憂《うれた》げな眼を伏せてはまた開いて眺めた。藍墨の曇りの掃毛目《はけめ》の見える大空から雲は剥《はが》れてまくれ立った。灰いろと葡萄《ぶどう》いろの二流れの雲は峯々を絡み、うずめ、解けて棚引く。峯々の雲は日のある空へ棚引いては消え去る。消え去るあとからあとから、藍墨の掃毛目の空は剥離して雲を供給する。峯はいつまで経っても憂愁の纏流《てんりゅう》から免れ得ないようである。それを見ている翁は、心中それほどの苦悩もないのだが、眼だけでも峯の愁いに義理を感じて、憂げに伏せてはまた開くのであった。そのうち翁は眼が怠《だる》くなって草原へごろりと臥《ね》てしまった。雲の去来は翁の眠っている暇にも続けられていた。だが、やがて雲は流れ尽き、峯は胸から下界へ向けて虹をかけ渡していた。
西国にて知れる限りの山々を翁はみな自分の分身のように感じられた。翁は山々を愛するがゆえに、それ等の山々の美醜長短を、人間の性格才能のように感じ取った。事実、山には一目見ただけでも傲慢であったり、独りよがりのお人好しであったりしそうな性格に見立てられるものがある。翁がみるところによると、どの山の性格でも翁自身の性格の中に無い性格はなかった。中に
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