まして居た。
「ひどい。なんの理由もなしに………」
性急にどもり乍《なが》ら男の声は醗酵した。
「あんたがあんまりおとなしいものだからよ。口説《くど》いたのよ。ここのうちの青熊が」
「青熊というのはここのうちの主人ですね。よろしい」
男の略図のような単純な五臓六腑が生れてはじめて食物を送る為以外に蠕動《ぜんどう》するのが歯朶子に見えた。男は慄《ふる》える唇を前歯の裏でおさえていった。
「僕はここにある石膏をみんな壊してやる。それからあなたの職業を外の家にきっと探して来る」
その次におかみさんに逢ったとき歯朶子はいった。
「ありがとう。塩はほんとうに利いてよ。あの人に情が出てよ」
おかみさんは前に自分の云ったことを忘れて居た。そして歯朶子からはなしの全部を聞いて驚いて仕舞った。
「あたしゃ、でたらめに塩をつけたらと云ったのに、あんたはほんとうに塩をつけて喰べたのね。なるほど男に塩をつけるってそうするものなのね」
その晩おかみさんは亭主に云った。
「へんなことがあるんだよ。おまえさん。歯朶子の情人があたしのようなものを口説くんだよ。本気でだよ」
安ウイスキーを嘗《な》めて居た亭主は全身に興味の鱗《うろこ》を逆立てた。
「そいつあ、面白えな。色魔だな。うまく煽《おだ》てて石膏の一つも売りつけてやれ。売りつけねえと承知しねえぞ」
その翌朝いやいや亭主に連れられて売付ける石膏を極《き》めに物置へ行ったかみさんは、勇ましい希臘の武将の石膏像の一つが壊されて居るのを発見した――ごく臆病に肩の先だけちょっと。
愚人集[#二]牛乳[#一]喩
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愚人は客が来るまで日々の牛乳を搾《しぼ》らないで女牛の体内にためて置くつもりだった。いよいよ客が来た時愚人は女牛の乳をしぼったがやはり一日分しか出なかった。
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夫の愛は日に日に新鮮だった。血の気を増す苜蓿《うまごやし》の匂いがした。肌目《きめ》のつんだネルのつやをして居た。甘さは物足りないところで控えた。
それで保志子は夫の愛を牛乳に感じて宜《よ》かった。
新婚後十月目。
めずらしく三つ押し並んだ休日があった。東京の実家の妹達が泊りがけで遊びに来ると知らせてよこした。そのしらせ通りの日になるまでにはあと六つ黄ろい秋の日が間に並んで挟まって居た。
夫の自分への愛を
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