家へ帰り度《た》いというさっきからの気持は、人ごとのように縁の遠いものとなり、くるりと京橋の方へ向き直り、風の流れに送られて、群衆の方向に逆いながらまたそろそろ歩き出した。
 思考力をすっかり内部へ追い込んでしまったあとの、放漫なかの女の皮膚は、単純に反射的になっていて、湿気《しっけ》た風を真向きに顔へ当てることを嫌う理由だけでも、かの女にこんな動き方をさせた。
 本能そのもののようにデリケートで、しかし根強い力で動くかの女の無批判な行動を、逸作はふだんから好奇の眼で眺め、なるべく妨げないようにしていた。それで、かの女の転回を注意深く眼で追いながら、柳の根方でポケットから煙草《たばこ》を取り出して火を喫《す》いつけ、それから游《およ》ぐ子を監視する水泳教師のように、微笑を泛べながら二三間後を離れて随いて行った。
 無意志で歩いているかの女も、さすがにときどきは人に肩を衝《つ》かれ、またぱったり出会って同じ除《よ》け方をして立竦《たちすく》み合う逆コースを、だんだん煩わしく感じて来た。いつか左側の店並の往きの人の流れに織り込まれていた。すると同じ頃合いに、逆コースから順コースの人込みに移ったらしい学生の後姿が五六のまばらの人を距《へだ》てて、かの女の眼の前にぽっかり新しく泛んだ。
「あっ、一郎」
 かの女は危く叫びそうになって、屹《きっ》と心を引締めると、身体の中で全神経が酢を浴びたような気持がした。次に咽喉《のど》の辺から下頬が赫《あか》くなった。
 何とむす子の一郎によく似た青年だろう。小柄でいながら確《しっか》りした肉付の背中を持っていて、稍々《やや》左肩を聳《そび》やかし、細《ほっ》そりした頸《くび》から顔をうつ向き加減に前へ少し乗り出させながら、とっとと歩いて行く。無造作に冠《かぶ》った学生帽のうしろから少しはみ出た素直な子供ぽい盆の窪《くぼ》の垂毛まで、一郎に何とよく似た青年だろう。すると、もう、むす子特有のしなやかで熱いあの体温までが、サージの服地にふれたら直《す》ぐにも感じられるように思われた。
 かの女の神経は、嘘《うそ》と知りつつ、自由で寛闊《かんかつ》になり、そしてわくわくとのぼせて行った。
「パパ、一郎が……ううん、あの男の児が……そっくりなの一郎に……パパ……」
「うん、うん」
「あの子にすこし、随いてって好い?」
「うん」
「パパも来て……」
「うん」
 かの女は忙しく逸作に馳け寄ってこういう間も、眼は少年の後姿から離さず、また忙しく逸作から離れ、逸作より早足に少年の跡を追った。
 美術学校の帰りにむす子は友達と、ときどきモナミへ来て、元気な画論なぞした。そして出て行ったあと、偶然すぐかの女たちがそこへ入って行くと、馴染《なじみ》のボーイは急いで言った。
「坊ちゃんが、坊ちゃんが、いますぐ、出て行かれました。間に合いますよ」
 むす子の気配が移ったように、ボーイ達も明るく元気な声を出した。
 格別呼び返すほどのことも無いと思いながら、やっぱりかの女は駆けて往来へ出て見る。友達と簡単な挨拶《あいさつ》を交して、とっとと家路へ急ぐ、むす子の後姿が向うに見えた。かの女はあわてて呼び返した。
 むす子は表通りの人中で家の者に会うと、ちょっと気まりの悪い顔をして、ろくな挨拶もしなかった。それでいて、なつかしそうな眼つきをちらりと見せた。
 わけて彼女と人中で会うのは苦手らしかった。かの女の方もどうかしてか、とても気まり悪かった。それで、「へへん」と田舎娘のような笑い方をして、まじまじむす子を見入っていると、むす子は眼を外らし、唇の笑いを歯で噛《か》んでいった。
「また、羽織を曲げて着てますね。だらしのない」
 これがかの女に対する肉親の情の示し方だった。
 むす子はかの女と連れ立って歩くときに、ときどき焦《じ》れて「遅いなあ、僕先へ行きますよ」と、とっとと歩いて行く。そして十間ばかり先で佇《たたず》んで知らん顔で待ち受けていた。
 むす子は稍々《やや》内足で学生靴を逞《たくま》しくペーヴメントに擦《こす》り叩《たた》きながら、とっとと足ののろい母親を置いて行く。ラッパズボンの後襞《うしろひだ》が小憎らしい。それは内股から外股へ踏み運ぶ脚につれて、互い違いに太いズボン口へ向けて削《そ》ぎ下った。
「薄情、馬鹿、生意気、恩知らず――」
 こんな悪たれを胸の中に沸き立たせながら、小走りになってむす子を追いかけて行くとき、かの女の焦《いら》だたしくも不思議に嬉《うれ》しい気持。
 今一二間先に行く青年の足は、それほどの速さではないが、やはりかの女がときどき小走りを加えて歩かなければ、すぐ距離は延びそうだった。そして小走りの速度がむす子を追うときのピッチと同じほどになると、不思議にむす子を追うときの焦々した嬉しさがこみ上げて来て、かの女は眼に薄い涙を浮べた。
 かの女は感覚に誑《たぶらか》されていると知りつつも、青年のあとを追いながら明るい淋しい楽しい気持になるのをどうにも仕様がなかった。
 その青年は、むす子が熱心に覗《のぞ》くであろう筈《はず》の新しい縞柄《しまがら》が飾ってある洋服地店のショウウインドウや、新古典の図案の電気器具の並んでいるショウウインドウは気にもかけずに、さっさと行き過ぎた。その代り食物屋の軒電灯の集まっている暗い路地の人影を気にしたり、カフェの入口の棕梠竹《しゅろだけ》を無慈悲に毟《むし》り取ったりした。それがどうやら田舎臭い感じを与えて、かの女に失望の影をさしかけた。高い暗い建物の下を通るときは、青年はやや立ち止って一々敵対するように見上げた。横町を越す度毎に、人の塊と一緒に待ち合して通らず、一人ゆっくり横柄に自動車のヘッドライトの中を歩いて自動車の警笛を焦立たせた。かの女はその度に、
「よして呉《く》れればいいに、野蛮な」
と胸で呟《つぶや》き、そしてそのあとに、一郎とわざと口に出して呟いた。その人でない俤《おもかげ》をその人として夢みて行き度《た》い願いは、なかなか絶ち難い。
 左右の電車線路を眺め渡して、越すときだけ彼女を庇《かば》うように片手を背後に添えていた逸作は、かの女がまるで夢遊病者のようになって「似てるのよ、あの子一郎に似てるのよ」などと呟きながら、どこまでも青年のあとに随《つ》き、なおも銀座東側の夜店の並ぶ雑沓《ざっとう》の人混へ紛れ入って行くのを見て、「少し諄《くど》い」と思った。しかし「珍しい女だ」とも思った。そして、かの女のこのロマン性によればこそ、随分|億劫《おっくう》な世界一周も一緒にやり通し、だんだん人生に残り惜しいものも無くなったような経験も見聞も重ねて、今はどっちへ行ってもよいような身軽な気持だ。それに較《くら》べて、いつまでも処女性を持ち、いつになっても感情のまま驀地《まっしぐら》に行くかの女の姿を見ると、何となく人生の水先案内のようにも感じられた。そこでまた柳の根方に片足かけ、やおら二本目の煙草《たばこ》を喫《す》ってから、見残した芝居の幕のあとを見届ける気持で、半町ほど距《へだた》った人混の中のかの女を追った。
 銀座の西側に較《くら》べて東側の歩道は、東京の下町の匂《にお》いが強かった。柳の青い幹に電灯の導線をくねらせて並んで出ている夜店が、縁日らしいくだけた感じを与えた。込み合う雑沓の人々も、角袖《かくそで》の外套《がいとう》や手柄《てがら》をかけた日本髷《にほんまげ》や下町風の男女が、目立って交っていた。
 人混を縫って歩きながら夜店の側に立ち止ったり、青年の進み方は不規則で乱調子になって来た。そして銀座の散歩も、もう歩き足り、見物し足りた気怠《けだ》るさを、落した肩と引きずる靴の足元に見せはじめた。けれども青年はもっと散歩の興味を続け、又は、より以上の興味を求め度いらしく、ズボンのポケットへ突込んだ両手で上着をぐっとこね上げ、粗暴で悠々した態度で、街を漁《あさ》り進んだ。
 歩き方が乱調子になって来た青年の姿を見失うまいとして、かの女は嫌でも青年に近く随いて歩かねばならなかった。そして人だかりのしている夜店は意地になっても見落すまいとして、行き過ぎたのを小戻りさえする青年の近くにうろうろする洋装で童顔のかの女が、青年にだんだん意識されて来た。青年は行人を顧みるような素振りを装いながら、かの女の人柄や風態を見計うことを度々繰り返すようになった。
 離れて彼女を援護して行く逸作の方が、先に青年の企《たくら》みある行動を気取って、おかしいなと思った。しかし、かの女はすっかり青年の擬装の態度に欺かれて、人事のようにすましてただ立ち止っていた。たまたま閃《ひらめ》きかける青年の眼差《まなざ》しに自分の眼がぶつかると、見つけられてはならないと、あわてて後方へ歩き返した。
 青年のまともの顔が見られる度に、かの女は一剥《ひとは》ぎずつ夢を剥がれて行った。それはむす子とは全然面影の型の違った美青年だった。蒸気《むしけ》の陽気に暑がって阿弥陀《あみだ》冠《かぶ》りに抜き上げた帽子の高庇《たかびさし》の下から、青年の丸い広い額が現われ出すと、むす子に似た高い顎骨《あごぼね》も、やや削げた頬肉《ほおにく》も、つんもりした細く丸い顎も、忽《たちま》ち額の下へかっちり纏《まとま》ってしまって、セントヘレナのナポレオンを蕾《つぼみ》にしたような駿敏《しゅんびん》な顔になった。張って青味のさした両眼に、ムリロの描いた少女のような色っぽい露が溜《たま》っていた。今は唇さえ熱く赤々と感じられて来た。
「なんという間違いをしたものだろう」
 むす子に対する憧れが突然思いもかけぬ胸の中の別の個所から厳粛というほどの真率さでもって突き上げてきた。そしてその感情と、この眼の前の媚《なまめ》かしい青年に対する感覚だけの快さとが心の中に触れ合うと、まるで神経が感電したようにじりり[#「じりり」に傍点]と震え痺《しび》れ、石灰の中へ投げ飛ばされたような、白く爛《ただ》れた自己嫌悪に陥った。
 かの女は目も眩《くら》むほど不快の気持に堪えて歩いて行くと、やがて二つの感情はどうやら、おのおのの持場持場に納まり、沖の遠鳴りのような、ただうら悲しい、なつかしい遣瀬《やるせ》なさが、再びかの女を宙の夢に浮かして群衆の中を歩かした。
 ぱらぱらと雨が降り出して来た。町角の街頭画家は脚立をしまいかけていた。いや、雨気はもっと前から落ちて居たのかも知れない。用意のいい夜店はかなり店をしまって、往来の人もまばらに急ぎ足になっていた。
 灯という灯はどれも白蝋《はくろう》のヴェールをかけ、ネオンの色明りは遠い空でにじみ流れていた。
 今度は青年の方から距離を調子取って行くので、かの女は青年にはぐれもせず、濡《ぬ》れて電車線路の強く光る尾張町を再び渡った。
 慾も得もない。ただ、寂しい気持に取り残され度くない。ただそれだけの熱情にひかれて、かの女は青年のあとについて行った。後姿だけを、むす子と思いなつかしんで行くことだ。美青年に用はない。
 新橋際まで来て、そこの電車路を西側に渡った。かの女は殆《ほとん》どびしょ濡《ぬ》れに近くなりながら、急に逸作の方を振り向くと、いつもの通り少しも動ぜぬ足どりで、雨のなかを自分のあとから従《つ》いて来る。その端麗な顔立ちが、雨にうっすりと濡れ、街の火に光って一層引締って見える。彼女は非常な我儘《わがまま》をしたあとのような済まない気持になりながら、ペーヴメントの角に靴の踵《かかと》を立てて、逸作の近づいて来るのを待つつもりでいると、もう行き過ぎて見えなくなったと思った青年が、角の建物の陰から出て来てかの女にそっと立ち寄って来た。そして不手際にいった。
「僕に御用でしたら、どこかで御話伺いましょう」
 かの女は呆《あき》れて眼を見張った。まだ子供子供している青年の可愛気《かわいげ》な顔を見た。青年は伏目になって、しかし、意地強い恥しげな微笑を洩《もら》した。かの女は何と云い返そうかと、息を詰めた途端に、急に得体も知れない怯《おび》えが来た。
 かの女は「パパ!」と
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