のである。そこにはもう、何も彼も忘れて、子供をからかえる素朴な母になって、春の一夜を過したいかの女が在るばかりだった。
すると憂鬱に黙っていた牛のような青年が、何を感じたか、むっつりした声で怒鳴った。
「ママン、万歳!」
「この男はアルトゥールと云って、独逸《ドイツ》が混ってるフランス人ですがね」
とむす子は日本語がみんなに判らぬのを幸い、かの女に露骨に説明した。
「いい思いつきを持ってる店頭建築の意匠家ですがね。何か感激したものを持たないと決して仕事をしないのです。つまり恋なのですが、随分七難かしい恋愛を求めてるんです。僕のみるところでは、姉とか母とかの愛のようなものを恋愛によそえて求めてるようなのですが、当人は飽くまでもただの恋愛だといって頑張ってるんです。西洋人の中には随分独断の奴が多いのです。自分の考えていることを一々実際にやってみて、行き詰って額をぶつけてからでないと承知しないのです。このアルトゥールもその一人ですが、そんな理ですから、また、この男くらい恋愛を簡単に女に投げかけてみて、そして深刻に失敗した奴も少いでしょう。つまり、こいつぐらい恋愛の場数を踏みながら、まだ恋愛の一年生にとまっている奴も少いでしょう」
「じゃ、一郎はもう卒業生なの」
「まあ、黙って。そこで、おかしい事があるんです。このアルトゥールがどこで女に失敗するかというと、その熱心さがあんまり気狂い染《じ》みているというんです。ここにいるロザリもエレンも、一度はその気狂い染みた恋愛の相手になったのですが、女たちの話を訊《き》くと、甘えて卑《へ》り下ってしようがないというんです。恋人を実際生活の上でほんとの女神扱いにするんだそうです。希臘神話《ギリシアしんわ》に出て来るようなへんな着物を拵《こしら》えて女に着せて、バラの冠を頭に巻かして自分はその傍に重々しく坐《すわ》っている。まあ、そんな調子です」
「それから奇抜なのは、そういう恋愛を得た時、この男のインスピレーションは高められて、しっしと、引受けた店頭建築の意匠を捗《はかど》らせて見事な仕事をするのですが、出来上った店頭装飾建築には、一々そのときの恋人の名前をつけるんです。エレンのポーチとか、ロザリのアーチとか。そして、その完成祝いには恋人の女神を連れて来て初入店の式をさせるのです。その希臘神話風の服装で」
「女は、殊に西洋人の女は、決してそういう扱いを嫌いなわけではありません。大好きです。それで、暫時は有頂天になっていますが、結局は空虚の感じに堪えられなくなるというんです。なぜでしょう」
「それは総てを与えても、結局は男が女に与うべきものを与えないからでしょう」かの女は即座に答えた。エゴイズムの男。そして自分でもそのエゴイズムに気がつかない男。かの女の結婚生活の前半の嘆き苦しみの原因もまた、そこに在ったのではなかったか……。
「そうでしょうか、そうかも知れませんね」
「パパとアルトゥールとまるっきり違うけど……私思い出したわ。ほらあんた子供のとき、パパと新しく出来た船のお客に二人だけで呼ばれてって、二三日ママと訣《わか》れてたことがあったでしょう。帰って来て、矢庭にママにぶら下がって泣き出したね。何故だか人中でパパと暮すと、とても寂しくてやり切れないって……」
むす子は遠い過去の実感に突き当って顔が少し赫《あか》くなったのを、ビールを口へ持って行って和めた。
「パパは、はやりっ子になりたてでしたね。あの時分、世間だの仕事だのが珍しくって面白くって堪《たま》らない一方だったんですね……あの時分からみると、パパは生れ代ったような人になりましたね」
「ほんとうに、あなたにも私にも勿体《もったい》ないようなパパ……今のようなパパだと、昔のことなんか気の毒で云えないね」こう云い乍《なが》らかの女は、仕事の天分ばかりあって人間同志の結び目を知らないで恋人に逃げられてばかりいるアルトゥール青年を、悲喜劇染みた気持で見返した。
「あの青年はどういう育ちの人」
「さあ、そいつはまだ聞きませんでしたが、ときどき打っても叩《たた》いても自分の本当の気持は吐かないという依估地《いこじ》なところを見せることがありますよ。そして僕がそれをそういってやっても、はっきりは判らないらしいんです。つまり単純な天才なんですね。そこへ行くとパパは話せる。あんな天才生活時代の前生涯と、今のプライヴェート生活のような親密な性情と両面持っている……」
かの女とむす子がプライヴェートな会話に落ちこんでいると見たらしく、アルトゥールは非常に軽快なアクセントで、他の連中に講演口調で喋《しゃべ》っていた。
「白のニッケル、マホガニー材、蝋色《ろういろ》の大理石、これだけあれば、俺はどんな感情でも形に纏《まと》めてみせるね。どんな繊細な感情でもだぞ」
「恋愛はその限りに非《あら》ずか」
芸術写真師は傍から揶揄《からか》った。
「そんなことはない」とアルトゥールは写真師を噛《か》むように云ったが、すぐ興醒《きょうざ》め声になっていった。
「だが恋愛に関する限り、たとえば、嫉妬《しっと》だとか憎みだとかいうものは、生活に暇があって感情を反芻《はんすう》する贅沢《ぜいたく》者たちの取付いている感情だ。おれたち忙しい人間は感情は一渦紋で、収支決算をつけて、決して掛勘定にしとかない。感情さえ現金《キャッシュ》払いだ。現実から現実へ飛び移って行くんだ。嫉妬だとか、憎みだとかいうものは、感情に前後の関係を考える歴史趣味だ」
アルトゥールの云うこととは別の中味は、もう二重になっていて、云ってる意味と違ったものを隠しているようだった。心に臆《おく》したものがあって、そういう他人と深い交渉をつける膠質の感情は、はじめからこの男には芽も無いらしい。
大広間一面のざわめきが精力を出し切って、乾き掠《かす》れた響を帯び、老芸人の地声のように一定の調子を保って、もう高くも低くもならなくなった。天井に近く長い二流三流の煙の横雲が、草臥《くたび》れた乳色になって、動く力を失っている。
靠《もた》れ框《がまち》の角の花壺《はなつぼ》のねむり草が、しょうことなしに、葉の瞼《まぶた》を尖《さき》の方から合せかけて来た。
壁の前に、左の腕にナフキンをかけて彫刻のように突立っているギャルソンの頭が、妙に怪物染みて見える。
「みんな、この子と仲好くしてやって下さいね」かの女はグループを見廻《みまわ》してそういった。
「たのみますよ」
時に、かの女のいるテーブルの反対側の広間から、俄《にわか》に鬨《とき》の声が挙って、手擲弾《てなげだん》でも投げつけたような音がし出した。かの女はぴくりとして怯《おび》えた。同じくびっくりした壁の前のギャルソンは、急いでその方へ駆けて行ったが、すぐ一抱えにクラッカーの束を持って来て、テーブルの上へ投げ出した。
謝肉祭《カルナヴァル》
もう、そのとき、クラッカーを引き合って破裂させる音は、大広間一面を占領し、中から出た玩具の鳴物を鳴らす音、色テープを投げあうわめき、そしてそこでも、ここでも、※[#「※」は「口+喜」、第3水準1−15−18、637−下−13]々《きき》として紙の冠《かぶ》りものを頭に嵌《は》めて見交し合う姿が、暴動のように忽《たちま》ち周囲を浸した。
「おかあさん、何? 角笛《ホーン》、これ代えたげる冠りなさい」
うねって来る色テープの浪。繽紛《ひんぷん》と散る雪紙の中で、むす子は手早く取替えて、かの女にナポレオン帽を渡した。かの女は嬉《うれ》しそうにそれを冠った。ジュジュ以外のものも、銘々当った冠りものを冠った。ジュジュには日本の毛毬《けまり》が当った。
活を入れられて情景が一変した。広間は俄《にわか》に沸き立って来た。新しい酒の註文にギャルソンの駆《は》せ違う姿が活気を帯びて来た。
かの女はすっかりむす子のために、むす子のお友達になって遊ばせる気持を取戻し、ただ単純に投げ抛《う》ったりしているジュジュの手毬《てまり》を取って、日本の毬のつき方をして見せた。
ほうほうほけきょの
うぐいすよ、うぐいすよ
たまたま都へ上るとて上るとて
梅の小枝で昼寝して昼寝して
赤坂|奴《やっこ》の夢を見た夢を見た。
かの女はこういうことは案外器用であった。手首からすぐ丸い掌がつき、掌から申訳ばかりの蘆《あし》の芽のような指先が出ているかの女のこどものような手が、意外に翩翻《へんぽん》と翻《ひるがえ》って、唄《うた》につれ毬をつき弾ませ、毬を手の甲に受け留める手際は、西洋人には珍しいに違いなかった。
「オオ! 曲芸《シルク》!」
彼等は厳粛な顔をしてかの女のつく手を瞠《みい》った。
かの女はまた、毬をつき毬唄を唄っている間に、ふと、こんなことを思い泛《うか》べた。毬一つ買ってやれず、むす子を遊ばせ兼ねたむかし、そして、むす子が二十になって、今むす子とその友達のために毬唄をうたう自分。憎い運命、いじらしい運命、そしてまたいつのときにかこの子のために毬をつかれることやら――恐らく、これが最後でもあろうか。すると、声がだんだん曇って来て、涙を見せまいとするかの女の顔が自然とうつ向いて来た。
むす子は軽く角笛に唇を宛《あ》て、かの女を見守っていた。
女たちが代って覚束《おぼつか》なく毬をつき習ううち、夜は白々と明けて来た。窓越しにマロニエの街路樹の影が、銀灰色の暁の街の空気から徐々に浮き出して来た。
室内の人工の灯りが徐々に流れ込んで、部屋を浸す暁の光線と中和すると、妙に精の抜けた白茶けた超現実の世界に器物や光景を彩り、人々は影を失った鉛の片《きれ》のようにひらぺたく見える。
かの女は今ここに集まった男女が遊び女であれ、やくざ男であれ、自分の巴里《パリ》を去った後に、むす子の名を呼びかけて呉《く》れるものは、これ等の人々であるのを想《おも》えば、なつかしさが込み上げて来る。かの女は儚《はかな》い幻影に生ける意志を注ぎ込むような必死な眼差《まなざ》しで、これ等の人々を見渡した。
或る夜のかの女――今夜もかの女は逸作と銀座に来てモナミのテーブルに坐《すわ》っていたが、三四十分で椅子《いす》から立ち上った。
「さあ、行きましょう。外が大ぶ賑《にぎ》やかになりましたわ」
逸作は黙って笑いながら、かの女のだらしなく忘れて行く化粧鞄を取って後に従《つ》いて出た。
瞬き盛りの銀座のネオンは、電車通の狭谷を取り籠《こ》めて四方から咲き下す崖《がけ》の花畑のようだ。また、谷に人を追い込めて、脅かし誑《たぶら》かす妖精群のようにも見えた。
目をつけるとその一人一人に特色があって、そしてまた、特にこれが華やかとも思えない男女が、むらな雨雲のように押し合って塊ったり、意味なく途切れたりしつつ、大体の上では、町並の側と車道の側との二流れに分れて、さらさらと擦れ違って行く。すると、それがいかにも歓《よろこ》びに溢《あふ》れ、青春を持て剰《あま》している食後の夜の町のプロムナードの人種になって、特に銀座以外には見られぬ人種になって、上品で綺羅《きら》びやかな長蛇のような帯陣をなして流れて行く。
「やあ」
「よう!」
「うまくやってる」
「どうしたん?」
「しばらく」
きれぎれに投げ散らされるブールヴァル言葉が、足音のざわめきにタクトされつつ、しきりなしに乱れ飛ぶ。扇屋、食料品店、毛皮店、組紐屋《くみひもや》、化粧品屋、額縁店等々の店頭の灯が人通りを燦めかせつつ、ときどきの人の絶え間に、さっとペーヴメントの上へ剰り水のように投げ出される。
いつか、人混の中へ織り込まれていたかの女は、前後の動きの中に入って却《かえ》って落着いた。「藻掻《もが》いてもしようがない。随《つ》いて行くまでだ」都会人に取って人混は運命のような支配力を持っていた。薄靄《うすもや》を生海苔《なまのり》のように町の空に引き伸して高い星を明滅させている暖かい東南風が一吹き強く頬《ほお》に感ずると、かの女は、新橋際まで行ってそこから車に乗り、早く
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