K・S氏はそこで出た料理の中で、焼蛤《やきはまぐり》の皿に紅梅の蕾《つぼみ》が添えてあったことや、青竹の串《くし》に差した田楽の豆腐に塗ってある味噌《みそ》に木の芽が匂《にお》ったことを想《おも》い出して話した。
「日本人は実に季節の自然を何ものにも取り入れることがうまい」
逸作はまた彼の友が、K・S氏はさすがに芸術家だけあって、西洋人にしては味覚や嗅覚がデリケートなことに感心していたと告げた。
かの女はまた夫人に、稚子髷をはじめ日本の伝統の髪の型を説明していた。
一行四人の足は日比谷公園に踏み込んだ。K・S氏は沁々《しみじみ》とした調子でかの女に云った。
「いろいろ見せて頂いたり、味わわせて頂いたりしましたが、こちらへ来てはじめてイチロのことが判ったような気がします。彼はやっぱりこの国柄を背景に持った芸術家です。
「お世辞でなく、彼は私などよりよい素質を持って生れた画家です。なるほど私は、彼より世才もあり金儲《かねもう》けの術も知っています。だが、素質に於ては到底年少の彼に及びません。
「奥さまは、私に彼を助ける何物かがあるとお想いかも知れませんが、彼はそんな必要のない立派な画家です。ただ、今のところ彼は絵を売らないだけです。
「私が私の持っている才能や経験で、彼に金になるような仕事の方法を教えてやるのは造作もないことです。彼はまたそれを立派にやって除《の》けましょう。しかし、それは恐ろしいことです。彼は出来るだけ自由に働かして、金や生活のことに頭を使わせたくないんです」
かの女は、自分がすでに感じていることを今更云い出されるような迂遠《うえん》さを感じた。しかし、長幼老若の区別や、有名無名の体裁を離れて、実際の力の上から物を云うモンパルナスの芸術家気質の言葉を、尊敬して傾聴した。場合によっては、このむす子を自分のむす子としてより、日本の誇として、世界の花として、捧げねばならない運命になるかも知れない。晴がましくも、やや寂しい。
かの女は一行とゆるゆる日比谷公園の花壇や植込の間を歩きながら、春と初夏の花が一時に蕾をつけて、冬からはまるで幕がわりのように、頓《とみ》に長閑《のどか》な貌様《ぼうよう》を呈して来る巴里《パリ》の春さきを想い出した。濃く青い空は媚《こび》を含んでいつまでも暮れなかった。エッフェル塔は長い長い影を、セーヌ河岸の樹帯の葉の上や、密集した建物の上へはっきり曳《ひ》きながら、広く河波に臨んで繊細で逞《たくま》しい脚を驚くほど張り拡《ひろ》げていた。
街を歩くと、紫色やレモン色の室内の灯を背景に、道路まで並べ出されたキャフェの卓で、大勢の客がアペリチーフを飲みつつ行人を眺めていた。それは仄《ほの》かで濃厚な黄昏《たそがれ》を味わうという顔付きに一致して、いくらか横着に構えた貪慾《どんよく》な落着きにさえ見えた。
こういう夕暮に、かの女はよくパッシィの家を出て、あまり遠くないトロカデロ宮裏の広庭に行った。パッシィの町が尽きたところから左手へ折れ、そこからやや勾配《こうばい》を上る小路の道には、古風な石垣が片側の崖《がけ》を防いでいた。僅《わず》かな樹海を通して、セーヌ河の河面の銀波に光る一片や、夕陽に煙った幻のようなエッフェル塔が見渡された。かの女は、時代をいつに置くとも判らない意識にするこの場所に暫《しばら》く立ち停《どま》り、むす子のアトリエのあるモンパルナスの空を眺め乍《なが》ら、むす子を置いて日本へ去る親子の哀別の情を貫いて、もうあといくばくもない短い月日の流れの、倉皇《そうこう》として過ぎ行くけはいを感じるのであった。
トロカデロ宮前を通り過ぎると、小さいキャフェには昔風に床へ鋸屑《おがくず》を厚く撒《ま》いているのが匂った。トロカデロ宮を裏へ廻《まわ》った広庭はセーヌの河岸で、緩い傾斜になっていた。その広闊《こうかつ》な場面を、幾何学的造りの庭が池の単純な円や、花壇の複雑な雲型や弧形で、精力的に区劃《くかく》されていた。それは偶然規則的な図案になって大河底を流れ下る氷の渦紋のようにも見えた。傾斜の末に、青木に囲まれて瀟洒《しょうしゃ》なイエナ橋が可愛《かわい》らしく架っている。ここから正面に見るエッフェル塔はあまりに大きい。
暮れるのを惜しむように、遊覧の人々は、三々五々|小径《こみち》を設計の模様に従って歩き廻り、眺め廻っていた。僅かに得た人生の須臾《しゅゆ》の間の安らかな時間を、ひたすら受け容《い》れようとして、日常の生活意識を杜絶《とぜつ》した人々がみんな蝶にも見える。子供にも見える。そして事実子供も随分多い。西洋の子供からあんまり泣き声が聞えない。
かの女は花壇の縁に腰を下ろして、いつまでもいつまでもぼんやりしている。後から来る約束のむす子が勉強の仕事を仕舞って、
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