る厄介な運命に引きかえて、むす子は到るところで愛され、縦横に振舞って、到るところで自由な天地が構えられる。何という無造作な生活力だろう。わが子ながら嫉《ねた》ましく小憎い。だがしかし、彼は見た通りの根からの無造作や自然で、果して今日のような生き方が出来ているだろうか。いや、あれにはあれだけの苦労があって、いまも底には随分|辛《つら》いものをも潜めているのではあるまいか。そういう悲哀の数々が自ずと泌《し》み出るので、たとえ、縦横に振舞い、闊達《かったつ》に処理するようでも、人の反感を買わないのではあるまいか。一郎はずっと幼時、かの女が病弱であったある一時期、小児寄宿舎にやられていた。そこで負けず嫌いな一郎は友達と喧嘩《けんか》するときよく引掻《ひっか》くので「猿」というあだ名をつけられていると聞いて「男の子やもいとけなけれど人中に口惜《くちを》しきこと数々あらん」とかの女は切なく詠《うた》ったこともあった。子供のときの苦労は身につく。しかし、その苦労を生《なま》で出さずに、いのちの闊色《かっしょく》にしたところは、わが子ながらあっぱれである。やっぱり根に純枠で逞《たくま》しいものを持って生れついて呉れたせいであろうか。
かの女は何とも知らず感謝のこころが湧《わ》き上って、それを表現するために、誰に向っていうともなく、
「有難うございます」
西洋人の前で不器用な日本流に頭を下げた。逸作も釣り込まれて、ちょっと頭を下げた。
食後に銀座通りの人ごみの中を一巡連れ立って歩いて見せた。人形《にんぎょう》蒐集熱《しゅうしゅうねつ》にかかっている若い夫人は、おもちゃ人形店を漁《あさ》った。
K・S氏は往来を眺め見渡しながら、
「イチロも日本に居るときは、始終ここを散歩したのですね」と云った。かの女はむす子が一緒だったらどんなに楽しかろうと思って見るのだが、客を疎外するように取られる懸念から口に出しては云わなかった。
展覧会場の交渉、刊行物や美術団体への紹介、作品の売約口など闊達の勢いで取り計った。逸作に云わすと、画家が作品を携帯している以上、これを発表し度いのは山々のことであり、出来るだけ売って金を作ってやることは、旅中の画家に対して一番親切な仕方であるというのである。逸作は、ふだん放漫で磊落《らいらく》なように見えるが、処世上の経済手段は、臆病と思えるほど消極的で手堅く、画なども自分から売ったことがない。その点で美術関係の諸方面にかなり信用が蓄積されていた。そういう下地がある上に、彼は一旦物事を遣《や》り出すと、その成績に冴《さ》えて凄味《すごみ》が出るほど徹底した。
そんなことでK・S氏の作品展覧会は、逸作の奔走により、来着後数日ならずして、市中の最も枢要な場所に在るデパートに小ぢんまりした部屋を急造させて賑《にぎ》やかに開催された。
「こんな性急なことは、巴里のどんな有力な画家でも出来ないことです。巴里ではどんなに早くても三月はかかります」
K・S氏はむしろ呆《あき》れながら、歓《よろこ》びにわくわくして云った。何度も何度も礼を云った。
ホテルの一室で、立続けに電話をかけたり、紹介の文案を書いたり、訪問記者と折衝したりして、深い疲労と、極度な喫煙で、どろんとした顔付きになっている逸作は、強いて事もなげに言った。
「いや、お気遣いなさるな。あなた方はむす子の友人です」それから沈痛な唇の引き締め方をして、また事務に取りかかった。
かの女は、今こそこの父はむす子の幼時に負うた不情の罪を贖《あがな》う決心でいるのだと思った。ときどき眼を瞑《つむ》って頭を軽く振っているのは、出そうになる涙を強情に振り戻しているのではあるまいか、それとも脳貧血を起しかけて眩暈《めまい》でもするのではあるまいか。父はあまりによき父になり過ぎた。
「パパ。少し翻訳を代りましょうか。休んで下さい」
すると、逸作は珍しく瞳《ひとみ》の焦点をかの女の瞳に熱く見合せて云った。
「僕が満足するまでやらせろ」
かの女と逸作は、星ヶ岡の茶寮を出て、K・S氏夫妻と共に、今日で終りの展覧会場へ寄ってみようと、ぶらぶら虎の門まで歩いて来た。春もやや準備が出来たといった工合《ぐあい》に、和やかなものが、晴れた空にも、建物を包む丘の茂みにも含みかけていた。
かの女と逸作の友人の実業家が招いて呉《く》れたK・S氏夫妻の招待は、茶寮の農家の間が場席だった。煤《すす》けた梁《はり》や柱に黒光りがするくらい年代のある田舎家の座敷を、そっくりそのまま持ち込まれた茶座敷には、囲炉裏《いろり》もあり、行灯《あんどん》もあった。西洋人に日本の郷土色を知せるには便利だろうという実業家の心尽しだった。稚子髷《ちごまげ》に振り袖《そで》の少女の給仕が配膳《はいぜん》を運んで来た。
前へ
次へ
全43ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング