に働いている。規矩男の母は、規矩男の養育の相談相手に、僅《わず》かに頼れる旧知の家として、度々織田の家庭を訪ねるのであった。
 規矩男自身と云えば、規矩男は府立×中学を出て一高の×部へ入り、卒業期に肺尖《はいせん》を少し傷めたので、卒業後大学へ行くのを暫《しばら》く遅らして、保養かたがた今は暫く休学しているのだという。だがもう肺尖などとうに治っている。保養とは世間の人に云う上べの言葉で、……と規矩男は稚純に顔を赫《あか》らめながら、やや狡智《こうち》らしく鼻の先だけで笑った。
「ではお父さまの云われた人生の本ものとかを、今からあなたも尋ね始めなさったの」
と、かの女も口許《くちもと》で笑って云えば、規矩男は今度は率直に云った。
「僕は父のように甘い虫の好い考えは持っていませんが……然《しか》し知識慾や感情の発達盛り、働き盛りの僕達の歳として、そう学校にばかりへばりついて行ってても仕方がありませんからね」
「でも大学は時間も少いし呑気《のんき》じゃありませんか」
「それが僕にはそうは行かないんです。僕という奴は、学校へ行き出せば学校の方へ絶対忠実にこびりつかなけりゃいられないような性分なんです。僕自身の性格は比較的複雑で横着にもかなり陰影がある癖に、一ヶ所変な幼稚な優等生型の部分があって……嫌んなっちゃうんで」
 規矩男はいくらか又不敵な笑い方をしたが、一層顔を赫らめて、
「ですから自分では、学校なんか三十歳までに出れば好いと思ってるんですが、母や織田達がいろいろ云うんで、或いは今年の秋か来年からまた始め出そうとも思っているんです」


 母と一緒に逢《あ》って呉《く》れと規矩男は手紙に書いたこともあったが、その後また一ヶ月ばかりの間に三四回もかの女と連れ立って、武蔵野を案内がてら散歩し乍《なが》ら、たびたび自分の家の近くを行き過ぎるのに、規矩男は自分の家へまだ一度もかの女を連れて行かず、母にも逢せなかった。かの女は規矩男に何か考えがあるのだろうし、かの女も別だん急に規矩男の母に逢い度《た》いとも思わなかったが、ある時何気なく云ってみた。
「あなたいつかの手紙で私にお母さんを逢せるなんて云ってね」
 規矩男は少し困って赫くなった。
「あなたが逢って呉れないものですから、僕のような生意気な人間でも、あんな通俗的な手法を使わなくっちゃならなくなったんですね」
「ははあ」

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