鉛の片《きれ》のようにひらぺたく見える。
 かの女は今ここに集まった男女が遊び女であれ、やくざ男であれ、自分の巴里《パリ》を去った後に、むす子の名を呼びかけて呉《く》れるものは、これ等の人々であるのを想《おも》えば、なつかしさが込み上げて来る。かの女は儚《はかな》い幻影に生ける意志を注ぎ込むような必死な眼差《まなざ》しで、これ等の人々を見渡した。


 或る夜のかの女――今夜もかの女は逸作と銀座に来てモナミのテーブルに坐《すわ》っていたが、三四十分で椅子《いす》から立ち上った。
「さあ、行きましょう。外が大ぶ賑《にぎ》やかになりましたわ」
 逸作は黙って笑いながら、かの女のだらしなく忘れて行く化粧鞄を取って後に従《つ》いて出た。
 瞬き盛りの銀座のネオンは、電車通の狭谷を取り籠《こ》めて四方から咲き下す崖《がけ》の花畑のようだ。また、谷に人を追い込めて、脅かし誑《たぶら》かす妖精群のようにも見えた。
 目をつけるとその一人一人に特色があって、そしてまた、特にこれが華やかとも思えない男女が、むらな雨雲のように押し合って塊ったり、意味なく途切れたりしつつ、大体の上では、町並の側と車道の側との二流れに分れて、さらさらと擦れ違って行く。すると、それがいかにも歓《よろこ》びに溢《あふ》れ、青春を持て剰《あま》している食後の夜の町のプロムナードの人種になって、特に銀座以外には見られぬ人種になって、上品で綺羅《きら》びやかな長蛇のような帯陣をなして流れて行く。
「やあ」
「よう!」
「うまくやってる」
「どうしたん?」
「しばらく」
 きれぎれに投げ散らされるブールヴァル言葉が、足音のざわめきにタクトされつつ、しきりなしに乱れ飛ぶ。扇屋、食料品店、毛皮店、組紐屋《くみひもや》、化粧品屋、額縁店等々の店頭の灯が人通りを燦めかせつつ、ときどきの人の絶え間に、さっとペーヴメントの上へ剰り水のように投げ出される。
 いつか、人混の中へ織り込まれていたかの女は、前後の動きの中に入って却《かえ》って落着いた。「藻掻《もが》いてもしようがない。随《つ》いて行くまでだ」都会人に取って人混は運命のような支配力を持っていた。薄靄《うすもや》を生海苔《なまのり》のように町の空に引き伸して高い星を明滅させている暖かい東南風が一吹き強く頬《ほお》に感ずると、かの女は、新橋際まで行ってそこから車に乗り、早く
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