切りの中にぎっしり詰っている。出どころの判らない匂《にお》いと笑いと唄《うた》とを引き切るように掻《か》き分けて、物売りと、分別顔のギャルソンが皿を運んだり斡旋《あっせん》したりしている。
「しまった、お母さん、いい場所を先に取られちゃった」
 かの女をモンパルナスのキャフェ・ド・ラ・クーポールに導いて入ったむす子は、ダブル鈕《ボタン》の上着のポケットから内輪に手を出し、ちょっと指してそういった。
 そこは靠れ壁の枡目《ますめ》の幾側かに取り囲まれ、花の芯《しん》にも当る位置にあった。硝子《ガラス》と青銅で作られた小さい噴水の塔は、メカニズムの様式を、色変りのネオンで裏から照り透す仕掛けになっている。噴水は三四段の棚に噴き滴って落ち、最後の水受け盤の中には東洋の金魚が小鱒と一しょに泳いでいた。
「いいの、いいの、こんやは、こっちが晩《おそ》いのだから」    
 かの女は、ちっとも気にしない声でそういった。そして別の場所を探すよう、やや撫肩《なでがた》ながら厚味のあるむす子の肩の肉を押した。
 噴水のネオンの光線の加減のためか、水盤を取り巻いて、食卓を控えた靠れ壁の人々の姿はハッキリ[#「ハッキリ」に傍点]しなかった。しかし、向うは、もう気がついたらしく、西洋人の訛《なま》ったアクセントで呼びかけるのが聞えた。
「イチロ、イチロ」
「イチロ」
 息子の名を呼びかけるそれらは女の声もあるし、男の声もあった。クックという忍び笑いを入れて囁《ささや》くように呼ぶ声は、揶揄《からか》い交りではあるが、決して悪意のあるものではなかった。
「まあ、誰」
 かの女は首を低めて、むす子の肩からネオンの陰を覗《のぞ》き込んだ。むす子はそれに答えないで吃《ども》った。
「ああ、あいつ等が占領しているのか、だいぶ豊かと見えるな」
 そして、声のする噴水のかげの隅に向って、のびのびした挨拶《あいさつ》の手を挙げていった。
「子供等よ、騒ぐでないぞ、森の菌霊《こびと》が臼《うす》搗《つ》くときぞ」
 むす子は、おかしさが口の端から洩《も》れるのをそのまま、子供等に対する家長らしい厳しい作り声をあっさり唇に偽装して、相手の群に発音し終ると、くるりと元の方向に踏み直って歩き出した。
「やったな、やったな」という声や、またも、「イチロ、イチロ」という叫び声が爆笑と混って聴えた。五六人、西洋人らしい
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