すみみ》して胸を躍らしている壁の一場面の前の人の動きにも決して注意を怠らなかった。
 そこにはたった一枚、K・S氏が携えて来たかの女のむす子のデッサンの小品が並べられてあるのだ。
 かの女を不安にしたのは、いつもその前に人だかりがして群衆の囁《ささや》きの瘤《こぶ》を作っているに引きかえ、今日はさっさと人の列は越して行くのだ。かの女は洪水が橋台を押し流してしまったあとの、滑らかな流れを見るような極度の不気味さを、人の列に感じて来た。どうしたことだろう。むす子の絵はもう飽きられたのか。人々に対して魅力を失ったのであろうか。
 かの女は不安を抑え切れなくなって、思わず覗き加減に立ち上った。人の隙《すき》から空虚なオリーヴ色の壁だけが見えて、そこにむす子の絵はない、かの女はあわて気味に近寄った。錯覚ではない。むす子の絵は姿も形もない。張札だけが曲っている。
「どうしたんだろう、一郎の絵――」
 かの女は口に出して云いながら、部屋の中をぐるぐる尋ね廻った揚句、咄嗟《とっさ》に思いついて入口の横の売場へ来た。かの女は少し息を弾ませて訊《き》いた。洋服を着た若い店員は、びっくりして直ぐ弁解口調に云った。
「え、あれはお売りになるのではなかったんですか。でも、K・Sさんは、日本へ一枚でも残す方がいいと売価をおつけでしたが」
 かの女は冷水のあとにまた温かい湯をうちかけられたような気がした。驚きはそのまま、心の和みが取り戻せた。
「まあ、誰が買いましたの」
「今夜の汽車でお発《た》ちの方だそうですが、是非自分で持って行き度いと、そう仰《おっ》しゃるものですから、もう閉場間際だし、包んでお渡ししました。たった今。この方です」
と事務員の出した売約帳には、昔の字画もそのまま「春日規矩男」と書いてあった。かの女は思わず会場の外に走り出た。そのときかの女は、どやどやとエレヴェーターの前から階段へ移り動いて行く一塊りの人数を見た。降りる機台も機台も満員なので、待ちあぐねた人達らしい。
 人数の重なりがほぐれて階段へかかる、その中の一人に、ハトロン紙の包を抱えた外套《がいとう》の青年を見た。それは規矩男であった。
 規矩男の後姿を見たときにかの女は、規矩男もかの女に気が附いたらしいのを知ったが、かの女の足は一歩もそこから動かなかった。そしてかの女は突立ったままで「ははあ、規矩男も奇抜なことをす
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