絵具を洗い落した石鹸臭い手をして、ひょっこり傍の叢《くさむら》から現われ出るのを待ち受けているのであった。
むす子は太い素朴な声で、
「おがあさん」
と呼ぶ。それは永遠の昔に夢の中で聞いたような覚えもする。未来永遠に聴ける約束の声であるような気もする。そしていまそれを肉声で現実に聴くのだ。
かの女は身慄《みぶる》いが出るほど嬉《うれ》しくなる。
だが、このむす子はなぜこう大きくなってまで、「おかあさん」とちゃんといわないで、子供のときのまま「おがあさん」と濁って呼ぶのであろう。
「おまえさんが子供のときにね」とかの女はむす子に語る。むす子は来るのを急いだらしく、改めてネクタイを結び直しながら聴いている。
「鼻が詰って口で息をするものだから、小児科のお医者さんに診《み》せたのだよ。すると、喉《のど》にアデノイドがあるというのだよ。アデノイドがある子は暴れるということを聞いたので、入院して切ることになったのさ」
ここでかの女はまず、くっくと笑った。
「その前からおまえは一通りならないやんちゃ[#「やんちゃ」に傍点]坊だった。親類の娘たちはおまえの活動には随分閉口していた。娘たちは小児科医の話を聞いて、なるほどおまえの腕白もみなそのアデノイドがさせるわざだと決めてしまった。おまえは手術が終って家へ帰って来た。どんなにかおとなしくなったろうと楽しみにして娘たちは、様子を見に来た。おまえの腕白はちっとも変らなかった。娘たちはつまらない顔をして帰って行った」
かの女は娘たちの案に相違した顔を思い出すように、またくっくと笑った。
「何だ。そんな話ですか。親というものは、子供のちょっとしたことでも、いつまでも覚えていて興味を持つものですね」
むす子は自分の幼時の話を聞くことは、嫌いではないらしいが、母がそれをあまり熱して興味がることは、母を平凡にし、母を年寄り臭くするので、その点を嫌がった。
「おかあさんもなるべく昔のことを忘れて、新しく出発するんですね」
「出発するってどんな風によ」
「おとうさんをご覧なさい。根が悧巧《りこう》だから、おかあさんのいのち[#「いのち」に傍点]を食って、今までの仕事をしました。今度はおかあさんの番ですよ。おとうさんのいい所を摂《と》って成長しなきゃ」
「たとえばどんなところよ」
「あのぬけぬけとしたところなど。おかあさんやこれからの僕には
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