とです。しかし、違うところ――つまりプラスとマイナスの相違となったのは、あなたのは何処までも教養で得た虚無であり、僕のは自我と熱情で強引に押し進めて行った結果のコチコチの殻を背負った虚無なのです。                
 僕は仄《ほの》かに力強いものをあなたに感じました。これ以上説明しにくいですが強いて云えば、あなたの空虚は――照らしているものの空虚――存在の意識を確めさせる空虚――夢中で弾ませる空虚――自然に在っては、微《かす》かな風に吹かれているときの花の茎に認められ――人間に在っては、一種の独断的な無心な状態に於けるとき湛《たた》えられている、あの何とも知れない無限で嫋《たお》やかな空虚――(後略)
[#ここで字下げ終わり]

 かの女は自分を虚無の殻に押し込め乍《なが》ら、まだまだ其処から陽の目を見よう見ようと※[#「※」は「足へん+宛」、第3水準1−92−36、658−上−27]《もが》いている規矩男の情熱の赤黒い蔓《つる》を感じる。そしてその蔓の尖《さき》は、上へ延びようとして却《かえ》って下へ深く潜って行く……かの女は自分を潔くするためにそれを見殺しする自分の行為が、勝手がましくも感ぜられて悲しい。かの女は自分の娘時代の寂しくも熱苦しかった悶《もだ》えを想《おも》い出した。
(山に来て二十日経ぬれどあたたかくわれをいたはる一樹だになし――娘時代のかの女の歌より)精神から見放しにされたまま、物足りなさに啜《すす》り泣いていた豊饒《ほうじょう》な肉体――かの女が規矩男のその肉体をまざまざ感じたその日、かの女は武蔵野へ規矩男を無断で置いて来た。それが最後で規矩男からかの女は訣《わか》れ去って来て仕舞ったのであった。
 その日規矩男の書斎から出た二人は、また武蔵野の初夏近い午後をぶらぶら歩き出した。一度日が陰って暗澹《あんたん》としたあたりの景色になったが、それを最後に空は全体として明るくなって来た。木々の若芽の叢《くさむら》が、垂れた房々を擡《もた》げてほのかに揮発性の匂《にお》いを発散する。山中の小さい峠の下り坂のようになって来た小径《こみち》は、赤土に湿りを帯びていて、かの女の履きものの踵《かかと》を、程よい粘度で一足一足に吸い込んだ。
 規矩男はまだシェストフについて云い続けていた。そして彼が衷心の感想を話す時のてれ[#「てれ」に傍点]隠しに
前へ 次へ
全86ページ中66ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング