。それから先は誰でも気に入った男と一緒になるがいゝ。」
――けど、あの娘、随分田舎|擦《ず》れがしてゝ仕立て憎いわね。」
――田舎擦れてゝも巴里擦れていない。中味は生の儘《まま》だね。まだ……だから巴里の砥石《といし》にかけるんだ。生《う》い/\しい上品な娘に充分なりそうだよ。」
[#ここで字下げ終わり]
 熟し切った太陽の下でセーヌ河のうす赫《あか》い土色の水が流れて居た。流れは箱型の水泳船の蔭へ来て涼しい蘆の中で小さい渦を沢山こしらえる。渦と渦と抱き合ってぴちょんぴちょんと音を立てる。「中の島」の基点になるポン・ド・グルネルの橋の突き出しに立っている自由の女神の銅像が炎天に※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]《に》えて姿態《ポーズ》の角々から青空に陽炎を立てゝいるように見える。橋を日傘が五ツ六ツ駈けて行く。対岸の石垣の道の菩提樹の間に行列の色がゆらめく。予定が今日に伸びた女店員《ミジネット》の徒歩競争が通って行くのだ。一人一人叩いて行く太鼓の音がまばらに聞える。「中の島」を跨《また》いでいるポン・ド・パッシイの二階橋の階上を貨物列車が爽やかな息を吐きながらしず/\パッシイ街の方へ越えて行く。昨日の祭日の粗野な賑わいを追っ払ったあとから本然の姿を現わして優雅に返った巴里の空のところどころに白雲が浮いて居る。新吉の竿の先にもおもちゃのような小さい魚が一つ釣り上げられて、それでも魚並みに跳ねている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あなたも渋くなったわね。すっかり巴里を卒業したのよ。」
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 リサは感に堪えたように言った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――どうしてだ。何を。」
――いままでのあなたの経験しなさったのはやっぱり追放人《エキスパトリエ》の巴里ね。誰でもすこし永く居る外国人が、感化される巴里よ。でも本当の巴里は其の先にあるのよ。噛んでも噛み切れないという根強い巴里よ。あなたはそれを噛み当て初めたのね。死んだフェルナンドは其の事を巴里の山河性と言ってましたよ。」
[#ここで字下げ終わり]
 リサは編物をちょいと新吉の背中に当てがって寸法を見て、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――ちょうどいゝ。これフェルナンドのを、あなたのジャケツに編み縮めてあげるのよ。」
[#ここで字下げ終わり]
 新吉はリサの手に持つ編物を見た。リサの情人で、死ぬのを嫌がり抜いて死んで行った天才建築家フェルナンドはまた新吉の親友だった。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あいつが生きてたら、今時分エッフェル塔をピューリズムで改築するって騒いでいるだろう。」
[#ここで字下げ終わり]
 こんなことを独言のように言いながら新吉は、自分は今はリサの息子にでもなってしまったような気がした。丁度遠く河上の方から展けて来た青空が街の屋根に近づいて卵黄色に濁りかけている境に小形の旅客飛行機がゆったり小さな姿を現わした。
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――ときに日本の奥さんの事はどうなさるの。――」
――ベッシェール夫人の忠告を入れてこっちへ呼ぶことにしたよ。夫人はもう実物を見ないと気になって仕方が無いと言うのだ。」
――しつこい気狂い婆さんね。だからあたしあの婆さんにはあんたがカテリイヌを探す話なんかしなかったのさ。あの婆さん、あの娘が巴里祭の時あんたと一緒に遊んだのは、たゞ其の場だけの事だと安心して居るのよ。婆さんは今のところあんたが国元の奥さんを真実に思い出してるのばかり気になって仕方ないのよ。ジャネットをあんたが、うんと気に入って今後も世話するなんてことがわかればそれこそあの婆さん、大変よ。」
[#ここで字下げ終わり]
 リサは自分の言うことだけ言ってしまうともとの実直な姿勢に直ってせっせとジャケツを直しにかゝった。
 黙って河に向いて居た新吉の眼から、いつか涙が湧いて頬を流れて居た。新吉は其の涙がセーヌ河の底まで落ちて浸み入るように思えた。新吉は其の涙があの病的天才服飾家の老美女ベッシェール夫人の為めに流れた涙であるのを暫らく後に意識した。だが涙が新吉の頬から乾いてセーヌの河風が一しきり涼しく吹き渡る頃、新吉の心はしん[#「しん」に傍点]と確かな底明るさに静まった。新吉はおもむろに内心で考え始めたのであった――巴里はあらゆる刺戟を用いて一旦人の心を現実世界から遊離させる。極端なニヒリストにもする。しかし其の過程の後に巴里が人々を導く処は、人生の底の底まで徹底した現実世界、または真味な生活境ではなかろうか。フェルナンドが「巴里の山河性」と言ったのは其処なんだな、俺もどうやら人生の本当の味を、これから巴里に落ち付いて、味って行けるようになるら
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