》が狭いので壁の上方の差出しの窪みに追い上げられ、そこにおさまって必死になって景気をそえて居た。其の窮屈そうな様子は燕の巣へ人間を入れたようだった。巴里慣れた新吉にも斯ういうところは始めてだった。
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――あの音楽家たちは一々梯子をかけて上《あが》り降りするのかね。」
――そんな呑気なことを言っているの。それよりも……。」
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 と歯痒ゆそうに返事をしながらジャネットは目につくほど踊り場の空気に呼吸を弾ませていた。三人は入口の通路から踊り場へ移る角のテーブルへ坐った。安酒のにおい、汗のにおい、食料脂のにおい、――、そういうものが雨で立籠められたうえ、靴の底から蹴上げられる埃と煙草の煙に混《まじ》り合って部屋の中の空気を重く濁した。天井近く浮んだ微塵物にシャンデリアの光が射して桃色や紫色の横雲に見えた。よく見るとその雲は踊りのテンポと同じ調子に慄《ふる》え、そして全体として踊りの環と同じ方向にゆる/\移っていた。布の端がこわばってめくれた新しい小型の万国旗が子供の細工のように張り渡されていた。それに比較して色紐やモールは、けば/\しく不釣合に大きい。
 流石に胸もとがむかつくらしく白いハンケチを鼻にあてながら酸味の荒い葡萄酒を啜《すす》って居たベッシェール夫人も、少し慣れて来たと見えて、思い切ってハンケチをとった。すると彼女は忽ち鼻をすん/\させて言った。
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――おや、茴香《ういきょう》の匂いがするよ。」
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 新吉の耳へ口を寄せて言った。
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――こういう家にはアブサンを内緒に持っているという話よ。あなたギャルソンにすこし握らせてごらんなさい。」
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 夫人の言う通り給仕はいかにも秘密そうに小さいコップを運んで来た。夫人はそれを物慣れた手附きで三つの大コップへ分けて入れ角砂糖と水を入れた。禁制の月石色《ムーンストーン》の液体からは運動神経を痺らす強い匂いが周囲の空気を追い除けた。
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――忘れるということは新しく物を覚えるということよ。酔うということは失った真面目さを取り戻すことよ。こういうことを若い人達は知らないことね。」
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 夫人は酒を悦《たの》し相《そう》に呑み乍《なが》ら、こんな判らないことをジャネットに言いかけコップを大事そうに嘗《な》め眼をつぶっている。
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――あたし酔ったら此のムッシュウをあなたに譲らなくなるかも知れないわ。」
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 本気とも病的な冗談ともつかない斯《こ》んな夫人の言葉も、ジャネットには気にかゝらない――ジャネットの若い敏感性がベッシェール夫人の人の好さを、すっかり呑み込んだらしかった。それよりか、つき上げて来る活気に堪えないとでもいうようにジャネットは音楽の変る度びに新吉を攫《さら》って場に立った。新吉はジャネットを抱えていて暫くは弾んで来る毬《まり》のように扱っていた。新吉にはもう今日一日のことは全て空しく過されて、たゞ在るものは眼の前の小娘を一人遊ばせて居るという事実だけだった。俺をニヒリストにした怪物の巴里奴が、此のニヒリストの蒼白《あおじろ》い、ふわ/\とした最後の希望なんか、一たまりもなく雲夢のように吹き飛ばすのさ。とうとう今日の祭にカテリイヌにも逢わせては呉れなかった巴里だ。――新吉は恨みがましく眼を閉じて、ともすれば自分を引き入れようとする娘の浮いた調子をだん/\持て扱い兼ねて外《は》ずしつゝ、外ずしつゝ、踊りは義理に拍子だけ合せるようになって仕舞った。こゝろに白《しら》けた以上に白け切って眼の裏のまぼろしに、不思議と魚の浮嚢《うきぶくろ》、餅の青黴《あおかび》、葉裏に一ぱい生みつけた小虫の卵、というようなものが代る/\ちらちら見え出して、身慄いが細い螺旋形《らせんけい》の針金にでもつき刺されるように肩から首筋を刺した。彼は首を仰向けにして、ぼんの窪《くぼ》で苦痛を押えていると悲しい涙が眼頭《めがしら》から瞼へあふれずにひそかに鼻の洞へ伝って行った。「我が世も終れり。」というような感慨じみた嘆声がわずかに吐息と一緒に唇を割って出ると今度は眼の裏のまぼろしに綺麗な水に濡れた自然の手洗石《ちょうずいし》が見え南天の細かい葉影を浴びて沈丁花が咲いて居る。日本の静かな朝。自分の家の小庭の手洗鉢の水流しのたゝきに五六条の白髪を落して、おさな顔のおみち[#「おみち」に傍点]が身じまいをしている姿が見える。おみち[#「おみち」に傍点]ばかりか自分も老の時期が来たのか。今宵《こ
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