で字下げ終わり]
夫人は酒を悦《たの》し相《そう》に呑み乍《なが》ら、こんな判らないことをジャネットに言いかけコップを大事そうに嘗《な》め眼をつぶっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あたし酔ったら此のムッシュウをあなたに譲らなくなるかも知れないわ。」
[#ここで字下げ終わり]
本気とも病的な冗談ともつかない斯《こ》んな夫人の言葉も、ジャネットには気にかゝらない――ジャネットの若い敏感性がベッシェール夫人の人の好さを、すっかり呑み込んだらしかった。それよりか、つき上げて来る活気に堪えないとでもいうようにジャネットは音楽の変る度びに新吉を攫《さら》って場に立った。新吉はジャネットを抱えていて暫くは弾んで来る毬《まり》のように扱っていた。新吉にはもう今日一日のことは全て空しく過されて、たゞ在るものは眼の前の小娘を一人遊ばせて居るという事実だけだった。俺をニヒリストにした怪物の巴里奴が、此のニヒリストの蒼白《あおじろ》い、ふわ/\とした最後の希望なんか、一たまりもなく雲夢のように吹き飛ばすのさ。とうとう今日の祭にカテリイヌにも逢わせては呉れなかった巴里だ。――新吉は恨みがましく眼を閉じて、ともすれば自分を引き入れようとする娘の浮いた調子をだん/\持て扱い兼ねて外《は》ずしつゝ、外ずしつゝ、踊りは義理に拍子だけ合せるようになって仕舞った。こゝろに白《しら》けた以上に白け切って眼の裏のまぼろしに、不思議と魚の浮嚢《うきぶくろ》、餅の青黴《あおかび》、葉裏に一ぱい生みつけた小虫の卵、というようなものが代る/\ちらちら見え出して、身慄いが細い螺旋形《らせんけい》の針金にでもつき刺されるように肩から首筋を刺した。彼は首を仰向けにして、ぼんの窪《くぼ》で苦痛を押えていると悲しい涙が眼頭《めがしら》から瞼へあふれずにひそかに鼻の洞へ伝って行った。「我が世も終れり。」というような感慨じみた嘆声がわずかに吐息と一緒に唇を割って出ると今度は眼の裏のまぼろしに綺麗な水に濡れた自然の手洗石《ちょうずいし》が見え南天の細かい葉影を浴びて沈丁花が咲いて居る。日本の静かな朝。自分の家の小庭の手洗鉢の水流しのたゝきに五六条の白髪を落して、おさな顔のおみち[#「おみち」に傍点]が身じまいをしている姿が見える。おみち[#「おみち」に傍点]ばかりか自分も老の時期が来たのか。今宵《こ
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