戻って来た。
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――あら、まだこんな所に居たの。仲好くするのもいゝが、あたしに内緒の相談だけは御免よ。」
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 新吉は夫人がひどく突然に自分の前に現れたのに眼を見張った。平常の巴里の優雅さを埋めかくして居る今日の祭の馬鹿騒ぎの中にベッシェール夫人は本当の巴里其のものゝ優雅さで新吉について歩いて居るのだ。新吉は夫人の心根がいとおしくなって来た。


 人々の気の付かないうちに空は厚く曇ってしまって雲の裾とも思える柔かい雨が降り出した。バスチイユの広場に、やゝあわてた混雑が起る。並んでいる小さい屋台店が急いで店をしまいかけるのもあれば、どうしようかと判断し兼ねて居るのもある。香具師《やし》の力持ちの夫婦は肥った運動服のかみさんを先に立てゝ、のそ/\キャフェの軒の下に避難しに行く。その後に残した道のはたの大きな鉄唖鈴《てつあれい》を子供達が靴で蹴っている。
 広場の中央と、遥か離れた町の片側とに出来ている音楽隊の屋台では却ってじゃん/\激しい曲を吹奏し出した。其の前で踊っている連中も雨を結局よい刺戟にして空を仰いで馬鹿笑いしたり、ひょうきんに首を縮めたりして調子づいて揉み合っている。傘をさして落着いて踊っている一組に、通りかかりの人がまばらに拍手を送る。
 電車の軋《きし》る音、乱れ足で行き違う群集の影。たそがれの気を帯びて黒い一と塊りになりかけている広場を囲む町の家々に燦爛《さんらん》と灯がともり出した。
 また疲れて恐迫症さえ伴う蒼ざめた気持ちになって新吉は此処まで来た。新吉のもはや何を想い、何に心をひかれる弾力も無くなって見える様子にベッシェール夫人は惨忍な興味を増した。老女の変態愛は自分も相当に疲れて居ながら新吉を最後の苧《お》がらのように性の脱けたものにするまで疲れさせねば承知出来なくなって居た。それにはジャネットの肉体的にも遊び廻るほど愈々《いよいよ》冴えて来る若さを一層強く示嗾《しそう》して新吉をあおりたてることに努める必要があると思った。
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――どう※[#感嘆符疑問符、1−8−78] この先きの貧乏街へ入って最後に飲んだり、踊ったりしない※[#感嘆符疑問符、1−8−78] すっかり平民的になって。」
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 ジャネットに取っても
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