の挙げるかけ声。小さい新吉は堪らなくなって新しい白足袋のまゝで表の道路へ飛び下りるのだった。縮緬《ちりめん》の揃いの浴衣の八ツ口から陽《ひ》にむき出された小さい肘に麻だすきへ釣り下げたおもちゃの鈴が当って鳴った。
気分というものは不思議に遇合することがあるものだ。ベッシェール夫人もこどもの時代のことを想い出した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あたしね。九つの歳の巴里祭に母に連れられてルュ・ラ・ボエシイを通るとね。ベレを冠った鬚《ひげ》の削《そ》りあとの青い男に無理に掴まって踊らされてね。その怖ろしさから恋を覚え始めたのよ。今でもベレを冠った鬚の削りあとの青い男を見ると何んだかこわいような、懐かしいような気がするのよ。」
[#ここで字下げ終わり]
横町と横町の間を貫く中通りにはブウローニュの森の観兵式を見物した群集のくずれらしいかなり多勢の行人の影が見えた。その頭の上に抜きん出て銀色に光る兜《かぶと》のうしろに凄艶《せいえん》な黒いつやの毛を垂らしている近衛兵が五六騎通った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あんた、まさか奥さんの手紙を懐に持って出ていらしたのじゃないでしょうねえ。」
[#ここで字下げ終わり]
夫人の想出話に対して新吉の返事がはかばかしくないので、夫人は急にこんなことを言い出した。新吉は危ないと思って、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あんたこそ、ジョルジュ氏のムウショワールでもバッグへ入れてやしませんかね。」
[#ここで字下げ終わり]
と逆襲した。すると夫人は新吉の腕から手を抜いて肩を掴え、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あたし、そういう情味のはなし大好きですわ。」
[#ここで字下げ終わり]
と言って夫人は、更《あらた》めて新吉の頬に軽く接吻した。新吉は斯《こ》ういう馬鹿らしいほど無邪気な夫人に今更あきれて、やっぱり憎み切れない女だと思った。
目的もなく昼近い太陽に照りつけられながら、所々に道一杯になって踊る群衆に遮《さえぎ》られ、または好奇心から立止まってそれを眺めたりしている内に、二人は元へ戻るような気のする坂道を登りかけて居るのを感じた。道のわきに柵があって、その崖の下の緑樹の梢を越してトロカデロ宮殿の渋い円味のある壁のはずれを掠《かす》めて規則正しくセー
前へ
次へ
全37ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング