蛯ォな眼だ。よく見るとごく軽微に眇《すがめ》になっている。その瞳が動くとき娘の情痴のような可憐ななまめき[#「なまめき」に傍点]がちらつく。瞳の上を覆う角膜はいつも涙をためたように光っている。決して大年増の莫蓮《ばくれん》を荷って行ける逞しさもまた知恵も備えた眼ではない。所詮は矛盾の多い性格の持主で彼女はあるだろう。(矛盾は巴里それ自身の性格でもあるように)何か内へ腐り込まれた毒素があって、たといそれが肉体的のものにしろ精神的のものにしろそれに抗素する女のいのちのうめき[#「うめき」に傍点]が彼女の唄になるのであろう。彼女に正統な音楽の素養は無かったはずだ。町辻でうめき[#「うめき」に傍点]酒場でうめき[#「うめき」に傍点]しているそのうめき[#「うめき」に傍点]声にひとりで節が乗ってとうとう人間のうめき[#「うめき」に傍点]の全幅の諧調を会得するようになったのだ。人間にあってうめかずにいられないところのものこそ彼女の生涯の唄の師である。
 彼女が唄うところのものはジゴロ、マクロの小意気さである。私窩子《じごく》のやるせない憂さ晴しである。あざれた恋の火傷の痕である。死と戯れの凄惨である。暗い場末の横町がそこに哀しくなすり出される。燐花のように無気味な青い瓦斯の洩れ灯が投げられる。凍る深夜の白い息吐《とい》きが――そしてたちまちはげしい自棄の嘆きが荒く飛んで聴衆はほとんど腸を露出するまでに彼女の唄の句切りに切りさいなまれると、其処に抉出《えぐりだ》される人々の心のうずき[#「うずき」に傍点]はうら寂びた巴里の裏街の割栗石の上へ引き廻され、恥かしめられ、おもちゃにされる。だが「幸福《しあわせ》」だといって朱い唇でヒステリカルに笑いもする。そして最後はあまくしなやかに唄い和《なご》めてくれるのだ。ダミアの唄は嬲《なぶり》殺しと按撫《あんぶ》とを一つにしたようなものなのだ。
 彼女はもちろん巴里の芸人の大立物だ。しかし彼女の芸質がルンペン性を通じて人間を把握しているものだけに彼女の顧客の範囲は割合に狭い。狭いが深い。
 ミスタンゲットを取り去ってもミスタンゲットの顧客は他に慰む手段もあろう。ダミアを取り去るときダミアの顧客に慰む術《すべ》は無い。同じ意味からいって彼女の芸は巴里の哀れさ寂しさをしみじみ秘めた小さいもろけた[#「もろけた」に傍点]小屋ほど適する。ルウロップ館
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