里の遺物である。大体、戦前から戦後にかけて彼の筆役勤務の現役を終えた文人であって、この付近に雑誌社、新聞社の巣窟があった時代の習慣で足はおのずとここへ向く。デカダン時代の風雅に養成された彼は、今日の唯物的健康なるものに対して悉く反噬《はんぜい》する。
「このごろ西の郊外に出来る新住宅の様式は、あれは建築ではないね、あれは建築の骨組というものだ。造作は永久に取付けない――」
 併せて彼はフランス主義者だ。カクテールを誂えているアメリカ娘に向っていう。
「御免下さいお嬢さん。巴里には Cocktail《カクテール》 というものは御座いませんぜ、Coqueter《コクテー》 ならありますが。全然アメリカのものとは違うんです。

    十一番《ルオンジェーム》

 イタリー街の朝のキャフェの一つのテーブルにぐったり[#「ぐったり」に傍点]肱を落した絹襟巻の紳士は、マデレン寺院を中心に直径半マイルほどの円囲内に地潜っている賭博宿の一つから出て来たものだ。ニコチン中毒で冷たく乾燥した手の掌を頭の毛に摺りつけては、その触覚を取戻そうと努めながら口の中でいっている。
「十一番、十一番、十一番、十一番……。」
 近ごろ Sanremo Casino の賭博室で、ルーレットが十一番に六回続けて当ったという事件があった。四回まで同じ人が張って五回と六回は人が代った。もし同じ人が六回まで張り通したら、カジノは七十万円ばかりの損になる勘定であった。
 この噂がこの社会一般に伝わると、|No. 11《ヌューメロオンズ》 という数は異様な神秘をもって賭博者流の心を捉えた。十一番の模倣者が続出した。そしていたずらに「数」の気まぐれに翻弄された。
 白絹襟巻の紳士は、涸裂《ひわ》れた唇に熱い珈琲《コーヒー》のコップを思い切って押しつけた。苦痛を通して内臓機関に浸み込んで行く芳烈な匂いは、彼の眼に青とも桃色ともつかぬ二重の蝶を幻覚させた。その蝶が天地大に姿をフォーカスし去ると、そこに二階の窓々で飾人形を掃除している並木越しの商店街を見出した。



底本:「世界紀行文学全集 第二巻 フランス編2[#「2」はローマ数字、1−13−22]」修道社
   1959(昭和34)年2月20日発行
入力:門田裕志
校正:田中敬三
2006年3月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング