焼パンと紅茶を誂えた。
 女達も彼には一向無頓着で、きゃっきゃっと笑い続けている。

    ロンポアンから

 ゆらゆらと風船でも飛ばしたい麗かさだ。みんながそう思う。期せずしてみんなが空を振り仰ぐ。そこにちゃんと一つ風船が浮いている。腹に字が書いてある。「春の香水、ヴィオレット・ド・バルム」気が利き過ぎて却って張り合いがない。
 町並のシャンゼリゼーが並木のシャンゼリゼーへ一息つくところに道の落合いがある。丸点《ロンポアン》。ささやかな噴水を斜に眺めてキャフェ丸点《ロンポアン》がある。桃色の練菓子に緑の刻みを入れたような一掴みの建物だ。
 春は陰影《かげ》で煮〆たようなキャフェ・マキシムでもなかろう。堅苦しいフウケでもなかろう。アメリカの石鹸臭いアンパはなおさらのことだ。ギャルソンの客あしらいに多少の薄情さはあっても、それがいつも芝居の舞台のように陽気に客を吹き流して行くロン・ポアンの店が、妙に春に似合う。マロニエの花にも近いというので、界隈の散歩人は入れ代り立ち代り少憩をとる。
「飴を塗った胡桃の串刺しはいかが?」
「燻製鮭《ソオモン》のサンドウイッチ、キァビヤ。――それから焙玉子《デズウフュメェ》にアンチョビの……。」
 少女達がいろいろなサンドウイッチを手頃な荷にして、ギャルソン達の忙しいサーヴィスの間を、邪魔にならぬように詰った客の間を、売歩く。
「あの、桃の肉が溶けているイタリーのヴェルモットはありませんかしら」
 と誂えて置いて、トオクを冠った女客がホールの鏡壁の七面へ映る七人の自分に対して好き嫌いをつけている。後向き、好き。少し横向き、少し好き。真横、好かない。七分身、やはり少し。では真向きの全身――椅子を直すふりして女客は立ち上った。が、真向きの一番広い鏡面は表のマロニエの影で埋まっている。白い花を載せた浅緑の葉や、赤い花を包んだ深緑の葉の影がかたまり、盛り上り、重なり合った少しまばらなところに、女客のトオクの先がわずかにちらついて写った。体の影はずっと奥の方へ追いやられて[#「追いやられて」は底本では「追ひやられて」]、表から出入する客達のきれぎれの影に刻み込まれた。
 部屋一ぱいの男客、女客の姿態は珈琲《コーヒー》の匂いと軽い酒の匂いに捩れ合って、多少醗酵しかけている。弾む話。――
「巴里の消防署長が、火事のときに消防夫に給与する白葡萄酒を今
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