伴う痛みではなかったでしょうか。
母の家政のやり方をただ虚栄で我儘と見た旧弟子達は、だんだん寄りつかなくなっていました。一人だけ昔と変りない及川に、母は娘の私を頼むより仕方がなかったのでした。私の少しばかりの身の廻り品を纏《まと》めて小風呂敷包みにして、それを抱えおじさんのように私に附添って母のところへ送り返した及川は、ごくあっさり
「お嬢さまは私が行った時、蒟蒻を煮ておいでになりました」
と報告しました。私に武者振りついても、飽くまで詰責《きっせき》しようと待構えていた母も、これですっかり気先《きさき》を挫《くじ》かれて、苦笑するより仕方ありませんでした。そのあと母は泣き出して、おろおろ声で及川に頼むのでした。
「今後はこの子をあなたがいつまでも面倒見てやって下さい。私の手には余ります」
すると及川は案外気さくに引受けて
「は、承知いたしました」
及川はどういう意味に母の頼みを引受けるつもりか。そう云ってからからと笑いました。それから、眼を深く瞑《つむ》り腕組をして、
「さあ、こういう時に、歿《な》くなられた先生の批判が伺《うかが》い度いものです。及川、貴様は科学者にしては冷静を欠くと、よく先生に叱られたものですが……」
良人の話によると、珪次は、良人が私との離別を云い出すと、激しく怒ったり泣いたりして、自殺するとまで云ったとのことであります。
「そこで安心して帰って来ました」と良人は云いました。私はあわてて
「それがどうして安心なのでございます」
と訊いた。良人は
「あの時、珪次君がじーッと眼を据えて、唇を噛み、顔が鉛色にでもなるようだったら、監視も要し兼ねないでしょうが、ああいう風に即座にタップのステップでも踏んでしまうように興奮して仕舞えば、総《すべ》てが発散して、却ってあとには残らんでしょう」
「どうしてそんなことを……」
「僕は自分で苦しんだ体験に無いことは、自分で信じもせず、また人にも云えぬようになっていますね」
私はこの人は恐ろしい男である。ひょっとすると、この力で巧んで私を珪次から奪い取ったのではあるまいかと、脅迫観念にさえ襲われました。しかし、仮りに奪われて来たにしろ、その力は讃嘆すべき程|頼母《たのも》しかった。こうして私はやがてこの人と結婚式を挙げました。
「どうだね、ここは」
良人は浴室で一風呂浴びて来た血色のいい肌へ浴衣《ゆかた》に丹前を重ねたものを不器用に着て縁に立ちました。硝子《ガラス》戸越の早春の朝の陽差しを眩《まぶ》しい眼ざしで防ぎながら海を眺めていました。
結婚後一ヶ月目の年の暮から、私をこの海岸の旅館に寄越して置いて、自分は年始廻りやら、正月の交際を済まして五日の日に宿へ来た彼は、割合に荷嵩《にがさ》な手荷物やらゴルフの道具やらを持ち込んだ。私は宿の女中に手伝って貰って、一先ずそれ等を部屋の中に適当に処置するために働いていました。
「気に入りましたわ。平凡なところが」
私はこんな返事をしながら、良人があまりに胸高に締め過ぎた帯を後からそっと掴《つか》み下げてやるほど、形だけは遠慮がとれた妻になっていました。良人はちょっと私を振り返って、自分でも帯の前の方をずり下げながら、
「平凡かね。なるほど……いや、気に入らなければどこへでも移ってあげるよ」
と云って、女中に座敷の中の煙草を取らして、そこの籐椅子《とういす》で、煙をふかし始めました。
「ほんとに皮肉でも何でもなく、平凡なところが結構でございますのよ」
その平凡なところを結構とする私のこころはこうでありました。若《も》し、秀抜な山のたたずまいや、雄渾《ゆうこん》な波濤の海を眺めやったなら、それを讃嘆する心の興奮に伴って、さすがに埋め尽した積りの珪次との初恋の埋火《うずみび》が、私の心に掻き起されないものでもないような気がしてならなかったのでありました。実際この浜には乾いた枯蘆しかなく、水は遠浅の内海ですが、しかし沖のかたに潮満ち寄せる日中の白帆の群が介殻《かいがら》を立て並べたように鋭く閃めき、潮先の泡に向って飜り落ちてはまた煽《あお》ぎ上る鴎の光って入乱れる影が、ふと眼に入ると、どういうものか私は堪らなくなりました。水はしずしずと渚《なぎさ》に寄せて青く膨れ上る。悠久な天地は悠久なままで、しかも人を置き去りにして過ぎ去って行く。人はどんどん取り残される。淋しいことだ。その時私は珪次も良人も要らない。ただ初恋のあの情熱だけを、いま一度取り戻したい。いのちにかけても、そう思いながら自分で自分の胸を抱いて座敷に立ったまま、嗚咽《おえつ》の声を堪え兼ねるのでありました。
夜になって闇の沖にいさり火の見えるのも苦しかった。見果てぬ夢をあまり短くして断ったそれを惜しませるような、冷たく揶揄《やゆ》するような沖の篝火《かがりび》でありました。灯は人の眼のように瞬《またた》くだけなお悪ったのです。私は早く月の夜になればいいと希《ねが》いました。月の夜になるとこの辺ではいさり火を焚く舟は出さないのです。
私はふと気がついて自分の冥想をまぎらすように、
「ばあやどうしています」と良人に訊きました。それと良人が海を眺めていた顔を室内へ振り向けて、
「この宿の食事はどうかね」という言葉とがかち合いました。良人も実は何か考えていたのを紛らすためにいった言葉らしい声音でした。
二人はただ微笑して、強いて返事を訊く必要もないお互の問いであることを、暗黙に示し合いました。そして暫くの間、浜辺に近い遠浅の春のようにあたたかい陽がのろりのろり淀んだ海面に練られている穏かな平凡の中に、万事を忘れるようにしました。岬をめぐって来る汽船の汽笛の音が聞えました。
「ほんとにこんなに永く滞在していて、あなたのお仕事はよいのですか」と私は良人に訊きました。正月も二十日過ぎです。
「僕はある点無茶な男でね。これが一番人生で、値打ちがあると信じたことに向っては、万事を放擲《ほうてき》して目的に取り組む。普段は随分打算家で、世間師の僕だがね。ここのところを君のお父さまは冷静を欠くと叱りなすったし、僕の前の……」と云いかけたが、ぐっと声を太めて、「僕の前の妻は圧制な暴君のように誤解して仕舞ったのだ」
ここで良人は一寸《ちょっと》私の顔を見て、
「しかし、僕はこれが身上なのだ。これを取り去られては僕というものがない。だんだん判って来たでしょうが、あまり気にしないで呉れ給え」
私は良人が私をうち見守る眼差の中で、結婚して始めての嬌態を作って、こう云わないでは居られませんでした。
「値打ちのある目的って、どんな目的をお持ちなのよ」
すると良人は、逞ましい腕を伸ばして私を自分の胸に押しつけました。
「僕のこの頑固な胸を君に開いて貰いたいのだ」
ああ、それは実に開くに骨の折れる重たい樫の木の扉《ドア》である。そしてその扉は良人の胸にばかりあるのかと思いの外、私の胸にもそれがあるのでした。一ばん困ることは、その扉を開けかけるとその隙間から、まず、結婚前のお互の想い出の辛い悲しい侏儒《しゅじゅ》がちろちろと魂に忍び込むことでした。良人にとっては前の妻であろうが、私にとっては珪次の想い出なのです。今頃、珪次はおとなしく再び学校通いを始めていて呉れているだろうか――。良人は一たん私を静かに胸から離して云いました。
「二人ともこれで実はそうとう深傷《ふかで》を負ってるのだなあ」
私は生れて以来こんな悲壮な男らしい声を聞いたことがありません。逞ましい雄獅子が自分と妻の致命的な傷口を嘗《な》め労《いた》わりつつ呻《うめ》く、絶体絶命の呻きです。私の身体はぶるぶると慄えました。ここまで苦しんだなら、いくら厚い仕切りでも消える筈だ。私の心はくるりと全体の向きを変えました。二人をこの上とも苦しめようとするのは何者だろう。
それは想い出だ。青春への未練だ。私はこの男にそれから逃れさすために、自分も潔《いさぎよ》くそれを捨てよう。私は女と生れた甲斐には気丈になって、この男を更生さしてやらなければならない。私は今度は進んで自分から良人の胸へ額を持って行きました。
「私も大人になりますから、あなたも過去のことは打切ってね。それからもう明日にも東京へ帰ることにして、すこしうちの事務の相談でもしましょうよ」
結婚式は挙げても、二人の心境がほんとうに茲《ここ》まで進まなければ、事実上の良人と妻になってはならない――こう良人は潔い遠慮をし、私も自然にそれに従っていたのが、式後一ヶ月以上の礼儀正しい二人の生活内容であったのです。
籔蔭に早咲きの梅の匂う浜田圃の畦《あぜ》を散歩しながら、私は良人が延ばしていた前の妻の墓標を建てることや、珪次の学費の補助のことや、感傷や遠慮を抜いた実質的な相談をしました。蒼溟として暮れかかる松林の上の空に新月が磨ぎ出された。一々私の相談を聞き取って確実な返事をしたのちに良人は和《なご》やかな気持ちになったらしい声で微笑しながら、
「この先の八幡が君の大好物の蒟蒻《こんにゃく》玉の名産地だそうだよ。今晩の夕飯に宿へ取寄せて貰って沢山食べ給えよ」
底本:「岡本かの子全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年7月22日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1974(昭和49)年3月〜1978(昭和53)年3月
初出:「新女苑」
1938(昭和13)年2月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年3月2日作成
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