、クッキングですか」
普通の人の背では届かぬアパートの部屋の窓の硝子《ガラス》戸の隙から、帽子の下の及川の正しく並んだ眼が覗《のぞ》いていました。顔は痩せて蒼黒く見えました。私は思わず部屋着の胸を掻き合せました。
「私も人生の失敗者です。その失敗者が同じ失敗者のあなたをお迎えに来るなんて妙なわけですが、おかあさまがお気の毒なので、お頼みをそのまま引受けてお迎えに参りました。場合によっては、自分のことは棚に上げて、ご意見でも何でも申しますよ」
二人が部屋に向き合ってからの及川の言葉でありました。
及川は寂しそうに笑いました。私はその男の寂しい笑顔を見ると、自分と珪次があんなに突き詰めて情熱を籠めて行動して来た生活が、まるで浮いた戯《たわむ》れのように顧られました。何と抗《さから》うてみても体験で固めたこの厚い扉のように堅く寂しい男の笑顔に対しては、爪も立たないように思われました。私をある悲惨な決意にさえ導きそうな現在の憂鬱さえ、彼の前にはまだ甘いものに感じられました。しかし、彼に黙って迎え取られて行く前に、たった一つ訊いてみなければならないことがある。私はちょっと口籠《くちごも》りながら、しかし勇気を起して訊ねました。
「あの、あなたの奥さまの悲劇はどういうことから起りましたの」
すると、及川はぐっと口を結んだが、額《ひたい》の小鬢《こびん》には興奮の血管が太く二三筋現れました。けれどやがてその興奮をも強く圧えてから云った。
「つまり、私があんまり完全無欠に女を愛し切ろうとしたためです。あの種の女に取ってはそういう男の熱情がただ圧制とばかり感じられて、死にもの狂いの反抗心を起させると見えます。こんなことを人に話しても判って貰えないかも知れませんが……」
及川は顔を悪魔のように皺《しわ》めて、
「やっぱり女には一部分それとなく気ままな自由を残して置いてやらなければ息がつけないと見えますね」
悔いと怒りを堪えるために却って無表情に帰した中年男の逞ましい意旨だけが、大きく瞠いた眼と、膨れた鼻孔とに読めました。
「私も前半生に於て痛切な勉強をしたものです」と彼は小さく声を低めて云いました。
私はむくりと骨から剥がれた肉の痛みのようなものを心に感じて、今居ない珪次が可愛相でならなくなりました。その痛みは珪次から離れて、この中年の男に牽かれ始めた私の魂の剥離作用に伴う痛みではなかったでしょうか。
母の家政のやり方をただ虚栄で我儘と見た旧弟子達は、だんだん寄りつかなくなっていました。一人だけ昔と変りない及川に、母は娘の私を頼むより仕方がなかったのでした。私の少しばかりの身の廻り品を纏《まと》めて小風呂敷包みにして、それを抱えおじさんのように私に附添って母のところへ送り返した及川は、ごくあっさり
「お嬢さまは私が行った時、蒟蒻を煮ておいでになりました」
と報告しました。私に武者振りついても、飽くまで詰責《きっせき》しようと待構えていた母も、これですっかり気先《きさき》を挫《くじ》かれて、苦笑するより仕方ありませんでした。そのあと母は泣き出して、おろおろ声で及川に頼むのでした。
「今後はこの子をあなたがいつまでも面倒見てやって下さい。私の手には余ります」
すると及川は案外気さくに引受けて
「は、承知いたしました」
及川はどういう意味に母の頼みを引受けるつもりか。そう云ってからからと笑いました。それから、眼を深く瞑《つむ》り腕組をして、
「さあ、こういう時に、歿《な》くなられた先生の批判が伺《うかが》い度いものです。及川、貴様は科学者にしては冷静を欠くと、よく先生に叱られたものですが……」
良人の話によると、珪次は、良人が私との離別を云い出すと、激しく怒ったり泣いたりして、自殺するとまで云ったとのことであります。
「そこで安心して帰って来ました」と良人は云いました。私はあわてて
「それがどうして安心なのでございます」
と訊いた。良人は
「あの時、珪次君がじーッと眼を据えて、唇を噛み、顔が鉛色にでもなるようだったら、監視も要し兼ねないでしょうが、ああいう風に即座にタップのステップでも踏んでしまうように興奮して仕舞えば、総《すべ》てが発散して、却ってあとには残らんでしょう」
「どうしてそんなことを……」
「僕は自分で苦しんだ体験に無いことは、自分で信じもせず、また人にも云えぬようになっていますね」
私はこの人は恐ろしい男である。ひょっとすると、この力で巧んで私を珪次から奪い取ったのではあるまいかと、脅迫観念にさえ襲われました。しかし、仮りに奪われて来たにしろ、その力は讃嘆すべき程|頼母《たのも》しかった。こうして私はやがてこの人と結婚式を挙げました。
「どうだね、ここは」
良人は浴室で一風呂浴びて来た血色のいい肌へ浴
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