行でありました。それが妨げられたのはたった一つの事件のためであります。
 私の母は気性の派手な、負けず嫌いな、その癖|締《し》め括《くく》りのない、学者の妻というよりは、まあ事業家の妻にした方が適任と思われる性質の女でした。私の家には私の外《ほか》に、弟妹四人あって、男二人は父親似の学者肌ですから、いつ独立して生活費の採れる見込みか判らないし、妹二人も母の性質にすれば、身分以上の仕度をしてよい家へ嫁入らせたかったのでしょう。どっちみちお金が欲しいところです。それで父親が遺して行った多少の動産を、珪次と相談して郷里の銀行へ出資したのだそうです。私はその方面に暗い女のことですからよくも判りませんが、その銀行は組織は無限責任の代りに出資者の利益は多い筈なのだそうです。
 それが見込み違いとなって、銀行はあやしくなり出して仕舞ったものですから、母は珪次を憎み出しました。
「あんな無責任な男はない」
 珪次にいわせると「そう性急《せっかち》に利益を挙げようたって無理だ」
 とにかく、私の行く手は遮《さえざ》られました。私は母に内密でそっと珪次に相談すると、
「関《かま》わないから、家を出てしまい給え。二人とも命がけならどんな事だって出来る」
 こう云った珪次と二人で思い切って借りて住んだアパートの生活も、始めは面白く行きましたが、すぐ珪次は飽きて来ました。
「やっぱり幸福には金は附きものだな。何とかして来よう」
 明るく気が利いて美貌の青年はどこの知合いへ行っても、おいしいものやお酒にはありつけます。しかし、お金を貸して呉れるほどの親身な知合いはありません。
 夜おそくドアを叩いて、ほろ酔い機嫌をわざと渋い表情で押えながら、
「きょうは留守の家ばかりにぶつかってね。あしたはきっと何とかなるよ」
 それから世間で聞いて来た面白い話や、とても景気のいい私たちの未来の空想話をして、床に入ると思うと、いい気持ちそうに直《す》ぐに鼾《いびさ》をかきました。
 それも度々では私に間が悪くなったと見え、三日目に一夜、二日目に一夜、友達の下宿へ泊って帰らぬようになりました。そのころのことです。ふと新聞の社会面で、今の良人の及川の妻が他の男と心中をした記事が出ているのを見つけましたのは。私はそのとき母がいつぞや「及川さん夫婦はうまく行かない」と云った噂は本当であり、そうまで妻にさせた及川にどんな事情があるにせよ、やっぱり酷い男なのではないかと思いはしたが、そのときの私には人の身の上を深く批判している余裕もなく、一途《いちず》に感情的な気持ちになって、それが自分達の身の上にふりかかっているせつなさと入り交って仕舞いました。珪次だとて、自分を嫌ってつれなくするのでなく、つまりは仕方なくなってこうもしているのだということが判っているものですから、ふと及川の妻の行為を知ってから、それに示唆されるような具合いに、むしろあしたでも帰って来たら、最初家出のときの覚悟の実行を珪次に勧めてみようかと思い定めて寝ました。
 そして、あくる朝、再びその新聞を見ると、八百屋が買物の蒟蒻《こんにゃく》を包んで呉れた古新聞で、日附は一年半ほども前の出来事です。私は何だか気が脱けてしまって、なんだと思っているところへ、ひょっこり帰って来た珪次の顔を見ると、生れつき何の屈托も取付けそうにない爽《さわやか》な青年なのを、私ゆえのために、こうもしょんぼりさせているのかと思うと、いじらしいような楽しみのような気持ちが起りまして、
「こらっ、いけずやさん、なぜ帰ったの」と笑いながら責めてやりました。すると珪次は案外に立ち勝った私の迎え方に有頂天になって、私の肩を抱えて、「御免、ね」と子供のように謝《あやま》りました。私は何とも知れぬ涙がはらはらと零《こぼ》れて、花のようなこの青年を決して私のために散らすまい。もし、そういう羽目にもなれば、自分一人だけの所決にしようと決心しました。
 その日は私の持ちものの最後を洗い浚《ざら》い持たせてやって、金に代えさせ、珪次を存分に御馳走してやりました。

 また二日ばかり経った珪次の留守の日のこと、私は小さい土鍋で、残った蒟蒻をくつくつ煮ていました。一寸《ちょっと》書き添えたいのですが、私はどういうものか子供の時から、あの捉えどころのないような味と風体《ふうてい》で人を焦《じ》らすような蒟蒻が大好物でした。私は鉛のような憂鬱に閉されて、湯玉で蒟蒻の切れの躍るのが、土鍋の中から嘲笑《あざわら》うように感じられるので、吹き上げるのも構わず、蓋《ふた》でぐっと圧《おさ》えていました。何も食べるものの無くなった今、蒟蒻は貴重な糧食であるばかりでなく、私はどうせ餓死するなら蒟蒻ばかり食べて死のうと、こんないこじな気持ちを募らせていました。丁度その時です。
「お嬢さん
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