は盃を返礼した後|云《い》った。
「だがこのもくろみをレイモンが知ったら何と思うだろうね、リゼット。」
 リゼットはさすがにきまり[#「きまり」に傍点]の悪さを想像した。彼女の情人《じょうにん》は一《いっ》さい「技術」というものを解《げ》さない男だった。彼女は云《い》った。
「まあ、知れるまで知らないことにしようよ。あいつ[#「あいつ」に傍点]に玄人《くろうと》のやることはめったに判《わか》りゃしないから。」
 三人は修繕《しゅうぜん》中のサン・ドニの門を潜《くぐ》って町の光のなかに出た。リゼットの疲れた胃袋に葡萄酒《ワイン》がだぶついて意地の悪い吐気《はきけ》が胴を逆にしごいた。もし気分がそのまま外に現われるとしたら自分の顔は半腐《はんぐさ》れの鬼婆《おにばば》のようなものだろう。彼女は興味を持って、手提鞄《てさげかばん》の鏡をそっと覗《のぞ》いて見る。そこには不思議な娘が曲馬団《きょくばだん》の馬を夢みている。この奇妙さがふたたびリゼットへ稼業《かぎょう》に対しての、冒険の勇気を与えて彼女は毎夜《まいよ》のような流眄《ながしめ》を八方に配り出した。しかも今夜の「新らしい工夫」に気付くと卒然《そつぜん》と彼女の勇気が倍加《ばいか》した。
 リゼットは鋸楽師《のこがくし》の左の腕に縋《すが》っておぼこ[#「おぼこ」に傍点]らしく振舞《ふるま》うのであった。孤独《こどく》が骨まで浸《し》み込んでいる老楽師はめずらしく若い娘にぴたと寄り添われたので半身熱苦しく煽《あお》られた。彼はそれを防ぐように左肩を高く持上《もちあ》げ鼻の先に汗を掻《か》いた。うしろから行くマギイ婆さんは何となく嫉妬《しっと》を感じ始めた。
 ポアッソニエの大通《グランブールヴァル》はもう五色《ごしき》の光の槍襖《やりぶすま》を八方から突出《つきだ》していた。しかしそれに刺《さ》され、あるいはそれを除《よ》けて行く往来の人はまだ篩《ふるい》にかけられていなかった。ゴミが多かった。というのは午後十一時過ぎのように全《まった》く遊び専門の人種になり切っていなかった。いくらか足並《あしなみ》に余裕を見せている男達も月賦《げっぷ》の衣裳《いしょう》屋の飾窓《かざりまど》に吸付《すいつ》いている退刻《ひけ》女売子《ミジネット》の背中へ廻《まわ》って行った。商売女には眼もくれなかった。キャフェでは給仕男《ギャルソン》たちが眺めのいい窓の卓子《テーブル》へ集まってゆっくり晩飯を食べていた。当番の給仕男が同僚たちに客に対すると同様に仕付《しつ》けよく給仕していた。
「今日は遊びかね。」
 という声がした。すぐそれは探偵《たんてい》であることが判《わか》った。リゼットは怖くも何とも無《な》かった。この子供顔の探偵は職業を面白がっていた。リゼットが始めて彼に捉《とら》えられてサン・ラザールの館《シャトウ》――即《すなわ》ち牢屋《ろうや》へ送り込まれるときには生鳥《いけどり》の鶉《うずら》のように大事にされた。真に猟《りょう》を愛する猟人《かりうど》は獲《え》ものを残酷《ざんこく》に扱うものではない。そして彼女が鑑札《かんさつ》を受けて大びらで稼ぎに出るとなるとこの探偵は尊敬さえもしてくれた。尊敬することによって自分が一人前にしてやった女を装飾《そうしょく》することは職業に興味を持つ探偵に取って悪い道楽《どうらく》ではなかった。
「可愛《かわい》い探偵さん。鑑札はちゃんと持っててよ。」
 リゼットはわざと行人《こうじん》に聞《きこ》えるような大きな声を出した。
「ああ、いいよ、いいよ、マドモアゼル。」
 彼は却《かえ》って面喰《めんくら》った。だがその場の滞《とどこおり》を流すように、
「今日は僕も休日さ。」
 といってちょっとポケットから椰子《やし》の実を覗《のぞ》かして向《むこ》うへ行った。多分《たぶん》モンマルトルの祭《まつり》の射的《しゃてき》ででも当てたのだろう。
 モンマルトルへはリゼツトは踏み込めなかった。ポアッソニエの通りだけが彼女に許された猟区《りょうく》だった。その中でもキャフェ――Rが彼女の持場《もちば》だった。この店へは比較的英米客が寄り付くので献立表《こんだてひょう》にもクラブ・サンドウィッチとか、ハムエッグスとかいう通俗《つうぞく》な英語名前の食品が並べてあった。
 客が好んで落ちつく長椅子《ソファ》の隅《すみ》――罠《わな》はそこだ。その席上を一つあけて隣の卓子《テーブル》へ彼女の一隊は坐《すわ》った。
 彼女に惚《ほ》れているコルシカ生《うま》れの給仕男《ギャルソン》が飛んで来て卓子を拭《ふ》いた。
「注文はなに? ペルノか、よし、ところでたった今、レイモンがお前を尋《たず》ねて来たぜ。」
 彼は何でも彼女の事を知っていた。彼女の代《かわ》りに彼が金
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