が忘れられないの。だからただ見ているの。
 日本の男の人と話をしただけでも怒るのよ。
 ツネリ方をわたしに習ってわたしをツネルのよ。
 でも、どうしても日本の男の人とお友達になりたいの、それで子供ならいいというので子供のお友達をこしらえたものの十六の少年ではいけず、十四の少年でいけず十三の育ちの悪い直ぐ顔を赭くするような子をお友達に見つけたの。名前は線二って言うの。
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 加奈子は線二を一二度見た。お京さんはフランス人形と並べてその子の顔におしろいを塗ってやっていた。それは加奈子が洋行する四五年前の日本の春の午後だった。
 道は下り坂になって来た。人々の帽子の上を越して電車の交叉点の混雑、それからまた向うへだらだら上りになる坂の見通し。右角に色彩を瓦《かわら》屋根で蓋《ふた》をしている果物屋があって左側には小さい公設市場のあるのが芝居の書割のように見えて嘘のようだ。欧米の高いもの広いものを見慣れて来て、その上、二十日間も涯なき海を渡って来た加奈子の視力はまたここで距離感を失った。
 もし手前の坂の左側にある小さい魚屋の店先に閃めく、青い鰺《あじ》やもっと青い鯖《さば》がなかったら加奈子は夢を踏んでその向う坂の書割の中に靴を踏み込めたかも知れない。だがその小魚たちは加奈子の眼の知覚を呼び覚《さま》して加奈子はその次の蕎麦《そぱ》屋に気がつき、その次の薬屋に気がつく。伯林のカイゼル・ウィルヘルム街の薬屋へ繕《なお》しに預けて置いたまま伯林を立ってしまったおしろいの噴霧筆《エア・ブラッシュ》はどうしたろう。
 そこで横町へ曲った。加奈子の頭にはもう豆腐屋のことしか無かった。まだあの店はあるだろうか。永らく孀《やもめ》暮しをしていて、一人で豆をひいていたのだったが世話する者があって夫婦養子をしたところが入籍してしまってから養子たちは養母をひどくいじめだしたという近所の噂だった。その癖、その養子たちは人の好さそうなポカンとした顔つきをしていて、むしろいじめられる養母の方が鬼瓦のようなきりょうの年増であったが。
 車の蔭に古簾が見え出して角の中に琴という字が書いてあった油障子はペンキ塗りの硝子戸に変っているが相変らず、さらし袋のかかっている店先の山椒の木の傍で子供が転んで泣いている背中を親鶏とヒヨコがあわてて跨《また》いで行く。
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――しばらく。
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 加奈子は古簾に手をかけた。
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――いらっしゃい。おや珍らしい。
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 そこに居たのは孀のお琴だ。手にビールのコップを持っている。
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――みんな御無事?
――は は は は は とうとうあの鬼奴らを追出してやりましたよ。裁判して勝ちましたよ。あんた洋行なすったと聞きましたが、いつお帰り?
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 ビールを持つ手をやや体の蔭に隠す。
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――四日ばかりまえ。
――おや、そうですか。まあどうぞお掛け。
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 お琴は手まめに上りはなの塵をはたいた。
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――でもおばさん。よく思い切ったことしたのね。
――此頃の若いものにはおとなしくしているとつけ上がられると思いましてね。とうとう裁判所へ駆け込みましたよ。もっともそのまえに二三度首を吊ろうとはしてみましたがね。こんなぶきりょうな女の死にざまをあいつらに見せたら、さぞまた悪口の種になるだろうと思いますと死に切れませんでね。そこで死に身になって料簡《りょうけん》を逆に取りましてね。
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 まえから幾らか酒がいけ、飲むと平常と違ってよくしゃべる女ではあったが今日は加奈子に久しぶりで逢った亢奮からまた余計にしゃべり度いらしかった。
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――もっとも素直には鬼奴らはあたしを家から出しませんからね。あんかを蹴っくり返しましてね。あいつらが周章《あわ》てて騒いでるうちに家を飛び出しましたよ。跣足《はだし》ですよ。そして最初裁判所だと思って飛び込んだのが海軍省でしてね。
――おばさん、此頃毎日お酒なんか飲むの。
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 お琴は二つ三つわざと舌打ちして見せて、
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――ええ、えい、毎日お酒も飲みますしね。亭主も持ちますしね。は は は は は。
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「おばさんひらけたのね」
 そこへ洋服に鞄《かばん》を抱えて気が重そうな若い小男が入って来た。
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――お前さん、お帰りかい。あなた、これがうちのです。
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 その男は横目でお琴のコップを睨《にら》みながら、気まずそうに頭を下げた。
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――むかしっからよくごひいきにして頂いたんだよ。よくお叩頭《じぎ》してお礼を言いなさいよ。
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 それから加奈子に向って、
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――この人、生意気に頭なんか分けてるんですよ、お婆の、かみさん持ってるくせに。
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 若い小男は急に頭を持上げて小声で怒鳴った。
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――ばかッ――。また酔ぱらったな。
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 それからさっさと土間からかけてある梯子段《はしごだん》で向うむきのまま靴を脱ぎ、メリンスのカーテンの垂らしてある中二階へ上って行った。
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――あんなに怒った顔をしていても直ぐに何でもなくなるんですよ。あたしゃ、すっかり男のこつを覚えましてね。今から考えるとやり方によっては先の亭主もあの養子野郎もあんなに増長させずに済んだと思いますよ。一たい男はおとなしい女は嫌いですね。
――おばさんお豆腐をこしらえる道具はどうしたの。
――あなたが洋行して居なさる間に世の中が変りましたね。いまこんな小さい豆腐屋では自分とこで品物はこしらえませんですよ。会社がありましてね、そこで大げさに製《こし》らえて分けるんです。あたし達はそこの会社の株主でもあり支店でもありますんでね。それから納豆も。
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 加奈子が差し出した手提げの菓子鉢をしきりに珍らしがったあとでお琴は真鍮の庖丁を薄く濁っている水の中へ差し入れ、ぶよぶよする四角い白い塊《かたまり》を鉢の中へ入れて呉れた。庖丁の腹で塊の頭を押えて大事そうに水を切る。
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――おお、恐かった。こんな立派なものへお豆腐なんか入れるのは始めてですからね。ですがこうすると、とても引っ立ちますね。まるでお豆腐には見えませんね。
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 加奈子が代価を払って店を出かけるときお琴はあわてて立って追って来た。
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――あのロンドンにいるとかいうお豆腐屋さんはなかなかよすとか死ぬとかしそうにはありませんかね。
――まあ、どうして。
――いえね。もしそんなことでもあったら一つ向うへ押し渡って豆腐屋でも始めようと思いましてね。男っていうものは割合に変りもの好きですからね。飽きさせないようにするのが一苦労ですよ。とてもうちにはこどもなんか生れそうもありませんからね。
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 加奈子はこんなおしゃべり婆さんのところにいつまでもいたくなかった。早くお京さんに逢い度かった。お京さんへの土産《みやげ》に買って来た伊太利《イタリー》フローレンス製の大理石のモザイクが小さな箱に納まったブローチとなって加奈子のポケットへ忍ばせてあった。加奈子は婆さんのおしゃべりに飽き飽きして片方の手をコツンと箱にさわらせた。そして一方の手で豆腐をいれた皿にはめた黒い鉄の提げ手を取った。加奈子のショールの外へ出た丸い手の薄皮にはほんのり枝を分けて透けて見える静脈が黄昏《たそがれ》を感じて細くなってる。貧しい町を吹きさらして来た棒のような風が豆腐を慄わせる。加奈子は何となしの悲哀に薄く涙のにじんだ眼で眺めて、崖の上のテニスコートに落ちる帰朝後四日目の太陽を惜《おし》んだ。
 日本の娘さんと正式の結婚をしたい。仏蘭西人アンリーのこういう願いからお京さんはアンリーに貰われた。アンリーはリヨンで王党の党員だったが矯激の振舞いがあったのでしばらくフランス縮緬《ちりめん》の輸出の仕事を請負って東洋へ来た。フランスから日本へは、たいした輸出品もないのだが、その中でも女の洋服地が一番崇高なものである。それで崇高な交易の途を追って日本へ来た。日本へ来てからは母国で矯激な振舞いなぞあったとも見えぬような律義な青年だった。千代田のお城の松をしきりに褒《ほ》めていた。そうかといって丸の内に建て増す足場無しに積み上げて行くアメリカ式のビルデングも排斥はしなかった。あれだってやっぱり日本人が拵《こし》らえたところはよく見えますよ。細部の行き亘っているところがやっぱり日本の建築ですね。などと如才なく言って居た。
 お京さんの家はちょっと大きい牛乳屋だった。×××種の牛を輸入して新聞に写真の広告を出していた。アンリーの家へも牛乳を入れていた。西洋人に異様な興味を持つ年頃であるお京さんは配達夫が持って行く牛乳の壜《びん》に日本の名所の絵葉書なぞ結びつけてやった。そんなことは一二度に過ぎなかったのだけれど、そのときアンリーから心付けを貰った配達夫はその後も自分で絵葉書を買って配達壜に結びつけお京さんの好意だといって心付けを貰った。そしてお京さんがアンリーを忘れてしまった時分にすっかり馴染《なじ》みがついたつもりのアンリーはお京さんとその両親を晩餐に招いた。三人は行った。
 それから本当に馴染がついてしまってアンリーもお京さんに嫁の望みを言い出せるようになった。お京さんはうかうかしていた。士族から率先して牛乳屋になった程の両親が外国人に望まれるということに誇りを感じ、かたがた若い西洋人のひとりものらしい肩のこけように義侠心を起し一人娘をやると決心した。
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――うちの三代目はあいの子でさ。
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 父親は頭を掻きながら遇う人に結婚を吹聴した。
 純粋の日本風でというので結婚式は大神宮の神式で行われた。白百合の五つ紋の黒紋付できちょうめんに坐ったアンリー。高島田に笄《こうがい》が飴色に冴《さ》えているお京さん。神殿の廊下の外には女子供が立集って、きゃきゃと騒いだ。加奈子もまじった。列席の二三の親しい友達は不思議な美にうたれた。
 まわりのものの心配するほどのこともなく二人は日本人同志の新郎新婦のように順当に半年を過した。アンリーの覚束《おぼつか》ない日本語。お京さんの覚束ないフランス語。その失敗だけが面白そうに友達に報告された。
 半年を過したある日のこと加奈子は萩の餅を持ってお京さんの家を訪ねた。お京さんはテーブルの上で万年筆で習字をして居た。女学校で使った横文字の古い習字の手本が麻のテーブル掛けの上に載っていた。お京さんは萩の餅をフォークで西洋皿に取り分けながらいった。
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――異人さんはやっぱり異人さんね。
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 取り分けた皿を三角戸棚の中へ蔵《しま》いに行くときお京さんの和服の着ようの腰から裾にかけてのしまりが無くなっていたのに加奈子は気付いた。西洋人の女優の扮するお蝶夫人の恰好になっていた。加奈子ははっと思った。それから行くたびに何かかにか愚痴が出るようになり、程なく遂々《とうとう》お京さんはアンリーから逃げ出した。行先を知っているのは母親と加奈子だけだった。父親は母親に押えられて強《しい》て居所も訊かなかっ
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